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◆不定期日記ログ◆

CATEGORY 考察

■2008-01-29
イ短審問
 440Hz(ラの音)は、人間がいちばん聞きやすい周波数らしい。
 だから、時報も、音叉も、ラの音を出す。
 コードの文字もラがAだ。
 日本音名もラ・シ・ドが「イ・ロ・ハ」だ。

 じゃあ「ラ」が始まりなんじゃあねーか!!
 なんで「ドレミ」で始まってんだよ!!
 ラに譲れよ!!

 …というわだかまりを母者にぶつけたら、

「10月が8番目の月(October)なんだから、
 3番目からスタートするのは別におかしくない」

 と、微妙に関係があるのかないのかわからないたとえで返された。
 悔しいが引き下がるしかない。
 
■2007-12-12
Vサインとは何者ぞ
 あなたは写真を撮られるときにVサインをするだろうか?
 子どもはする。ほぼ間違いなくする。授業中だろうが強行する。
 カメラに向けて勝利のポーズを取るならガッツポーズでもよかろうに、なぜか示し合わせたようにVサインをする。

 Vサインの起源に関しては諸説あるのでグーグル先生にでも聞いていただきたいが、日本で「写真に写るときはVサイン」がこれだけ流行したのは、1972年、カメラのCMで俳優の井上順がやったアドリブに端を発するらしい。

 干支が3巡するくらい過去の流行が、未だに子どもたちに受け継がれているとは驚かされる。
 一昨年はどこの小学校でも「フォー!」の声を聞いたが、去年はまったく聞かなかった。今年は「そんなの関係ねぇ!」がどこの小学校でも見られたが、来年は見ないだろう。
 そんな文化の消費社会たる日本で、これだけ根強く生き続けるVサイン。化け物のようだ。

 もし、カメラのCMの被写体が谷啓で、ポーズがガチョーンだったら、今頃日本人は皆ガチョーンで写真に写っていたのかもしれない。
 
■2007-10-08
いいえそれはトムです
 日本語はとにかくおくゆかしい言語で、直接的に申し上げることを避ける傾向がある。
 島国で農耕をしていたからだろうか、みなまで言わないことが美徳とされる。
 あうんの呼吸である。ツーカーの仲である。
 「どんだけー」で止めて、具体的なツッコミ内容は申し上げないのが良いのである。

 テーブルの向かい側の人のところにある塩を取って欲しいときも、
 「Pass me the salt, please.」などと無粋なことを言ってはならぬ。
 「すみません、それはお塩ですか?」と遠まわしにモノ欲しそうにするのが日本的なのである。
 相手は必ず行間を読んで「あ、スミマセン、どうぞ」と塩を取ってくれるだろう。

 だから、中学生諸君。
 よく聞いて欲しい。


 問1 次の質問に英語で答えなさい

  A:Is this an apple?  B:              .


 という問題に出くわして、「リンゴかどうかなんて見ればわかるだろアホウが」と思っているようでは、まだまだ空気を読めていない。
 日本人ならば、迷わずに

  A:Is this an apple?  B: Here   you   are .

 と解答すべき問題なのである。
 この問題は君たちに「世界に通用する日本人となるには、まず和の心を鍛えよ」と、そう申しているのだ。遠まわしに。
 
■2007-09-20
外惑星対決
 天王ウラノス、海王ネプトゥヌス(≒ポセイドン)、冥王プルートウ(≒ハーデス)のなかで、今もっとも涙目なのは昨年自分の星が降格してしまった冥王だろう。

 しかし海王も、プルトニウム、ウラニウムの圧倒的な知名度とくらべて、ネプツニウムのマイナーさをいつも指摘されているに違いない。

 そして天王も、車田正美から完全スルーされたため、ポセイドン・ハーデスとくらべて「その世代」の人の知名度が低いという弱みがある。

 誰が一番不幸か知らないけど、お前ら仲良くしろよ。
 
■2007-09-12
おもしろさ至上主義
 投票に行かない人の言い分として「誰に投票しても同じだから」というのがある。
 一理ある。
 キチンと投票している僕でも、心の底ではそれを実感しているからだ。

 投票率の低下に歯止めをかけるべく、受付時間を延長してみたり、期日前投票を簡素化したり、いろいろな策が打たれた。
 今後も投票行動にかかるコストは少なくなっていくだろう。

 しかしそれは違うんじゃあないのか?
 どんなにコストが0に近づこうが、コストはコスト。
 少なくなるのはいいことだが、民衆にはびこる「誰に投票しても同じ」という意識を払拭できない限り、根本的な解決になるとは思えない。

 なぜ「誰に投票しても同じ」だと感じるのか?
 単純なことだが、それは画一化されすぎた選挙運動のせいだと思う。
 おんなじような選挙ポスター、名前を連呼するだけの選挙カー、何一つとして違いを感じるものがない。
 公平性を保つための公職選挙法が効きすぎて、候補者それぞれの差別化が行えなくなってしまっているのだ。

 まったく知らない人の街頭演説の内容を吟味するコストは、投票所へ行くコストをはるかに上回る。
 簡単に一覧できるポスターは顔と名前しか書いていない。選挙カーからも名前しか聞こえてこない。
 こんな状態では「誰に投票しても同じ」と感じるのもやむをえない。

 もうちょっとおもしろい選挙運動ができるよう、公職選挙法をいじる必要があるのではないか?
 ミスチルのニューアルバムの広告と間違うような、斬新な選挙ポスターがあってもいいのではないか?
 翌日には演説動画がYouTubeにアップされてしまうような候補者が、もっといてもいいのではないか?

 まつりごとは粛々と行うもので「祭事」にしてはいかんという考え方もあるだろう。しかし執政者が変わるということは、民衆にとって祭りであってもいいはずだ。
 次はもっとおもしろい選挙になることを祈る。


 でもおもしろいこととふざけていることは違うので、そこんとこ踏み外さないでください。
 
■2007-07-13
選挙前なのでまじめな話
 「国の借金」という言い方が気に食わない。
 とくに社会の教科書でもこういう言い方をしているのが気に食わない。

 国債っていうのはたしかに借金だが、一般のイメージする借金とはちょっと違う。
 外国債でなく内国債である以上、それは将来手に入る予定の税金の「前借り」という意味合いが強いじゃあないか。
 こう考えると「借金」という言い方のアンフェアさがにじみ出て来る。

 800万の借金をしている奴が、今月も30万の借金をしようとしている。
 これは当たり前のことだ。
 当たり前じゃあいけないんだが、我々はこの手の話を、多重債務の恐ろしさの話などで頻繁に聞いている。受け入れやすい状態だ。

 こうなってしまった債務者はもうオワタ状態なので、
 「日本は終了しました」という無責任な印象を相手に伝えるにはもっとも手っ取り早いたとえだろう。

 ところがこれを「前借り」という言い方をすると印象が変わってくる。

 すでに小遣いを8000円前借りしている小学生が、さらに今月300円を追加で前借りできるか?しかもこいつの小遣いは月500円なんだぞ!

 できるわけがない。
 我々はそういうお話を聞いたことがない。先の多重債務者の話よりずっとありえない話だ。
 素直に「前借り」にたとえたほうが、「借金」にたとえて800兆がどうのと並べ立てるよりも、よっぽど今の財政の異常さを正確に示しているじゃあないか。

 なのに変な例ばっかりで、こうして前借りという表現を使った説明を見たことがない。
 ましてや家計にたとえて「こんなにヤバイ!」とか言うのは絶対にフェアじゃない。

 そんなに思考停止させたいのか。
 「なんでそんな前借りをさせちゃってるの、俺たちは?」っていう「疑問」をより喚起させたほうが、年金問題や福祉の問題につながるじゃあないか。

 多重債務者のエピソードとマッチングしてしまう「借金」という言い方は、逆に現実から目を背けさせるだけの不適切なたとえだと主張したい。
 以上!
 
■2007-05-24
楽都どウィーン
 前の日記で、「ウィンナーソーセージをウィンナーと略してしまったことによって、日本人はウィンナーコーヒーを受け入れがたい土壌を作ってしまった」というところまで書き進めようとして、ふと気がついた話。
 問題はハンバーグである。

 ハンバーグとはハンブルク(Hamburg)のことらしい。
 日本には、英語的に読んだものがカタカナ語として入ってきたのだろう。

 これはよくない。
 富士宮焼きそばを「フジノミヤ」と呼ぶくらいよくない。

 …そんな略し方もご当地料理的でよいという考え方もあろう。
 だがウィーンのソーセージはウィンナーだ。
 ナポリのスパゲティはナポリタンだ。
  
 したがってハンブルクのステーキはハンバーガーであるべき
 あ、ダメだ。


 挫折したところで冒頭の話題に戻るが、この話は結局「二種類も名物スタイルを抱え込んだウィーンが欲張りなだけであって、我々日本人にはなんの落ち度もない」という主張にまとまっていく予定であった。
 あと、フランクフルトはフランクフルトのままなのに、ウィーンのソーセージがウィンナーになるのも気に入らない。
 ウィーンに会ったら言ってやりたいことがいっぱいある。
 
■2007-05-10
あげだまボンバー!
 Bomberはボマーなのかボンバーなのか?

 ちょっと調べると本来の英語の発音ではボンバーにはならないことがわかる。まあ疑う余地はあるまい。

 だがボンバーという語感に強烈な魅力を感じるのもまた事実。
 もしm.c.A.T.が「Bomb A Head!」で「ボンアヘッ」って叫んでいたら君だってがっかりするだろう。
 いくらBombの最後のbを発音しないのが正確であるといっても、それを破ってみたくなるだけの魅力がこの響きにはある。

 我々がフランス人から「Hotelのことオテルって言えよ」と言われてもなかなか頷くことはできないように、bを発音しないなんていうのは英語圏で勝手に決めた流儀なんであって、僕ら極東の人間がそれに従わなければならないという理由はあるまい。
 しかしそのスタンスを取ってしまうと、最終的にモンブランのことをモントブランクとか言わなければならなくなってしまう可能性があるのでかなり辛い。

 いま俺に提言できることがあるとすれば…
 「ボンバーマン」は~erとmanで意味が重なってね?
 …ということだけだぜ。

 ランナーマン。ギタリストマン。なんかゆでの香り。
 
■2007-03-13
カタカナガリレイその2
 パネルディスカッション【panel discussion】
 討議する問題について、通例数人の対立意見の代表者(パネリスト)が、聴衆の前で論議をかわすこと。

 不要なカタカナ語の代表のようなこの単語が、いまや国語の教科書でも一つの単元として扱われている現状に絶望する。

 「パネルディスカッションはパネルを使って議論するものだと思ってた」と過去を恥じる人々よ!
 あなたたちは間違っていない。
 パネルディスカッションにパネルが出てこなかったなら、それはそっちのほうが間違っている。
 参加者のことをパネリストというからといって、日本語ですでに「板」として定着しきったパネルという単語を安直に流用するほうが間違っている。
 あなたたちを笑う者こそが、パネルディスカッションという言葉を紛らわしくない日本語に言い換えることのできなかった語彙の少ない連中の信奉者であり、逆に一笑に付されるべき存在なのだ。

 そもそもパネルディスカッションはシンポジウムと何が違うのか?
 違わせる意味はあるのか?
 ほぼ同義で浸透率の高い言葉があるのに、わざわざ「パネルディスカッション」の呼称での浸透をはかるということは、「えーマジ?パネルディスカッションにパネルが出てくると思ってていいのは小学生までだよねー」と他人を嘲笑し、「お、俺、panelの意味、知ってるんだぜ」と英語力を自慢する意図があるに違いない。
 なんという思いあがり…妄想が加速して、もうパネルディスカッションという言葉を見ただけでイライラしてきたぞ。

 このまま一足飛びに「カットソーがノコギリでないのはおかしい」というところまで攻撃を加えようと思ったが、どうやら今日はここまでのようだ。
 命拾いしたな!
 
■2007-02-15
カタカナガリレイ
 カタカナ語の乱用問題が取り沙汰されて久しい。
 だいぶ前に国立国語研究所が、わかりにくいカタカナ語を言いかえよう!と立ち上がって、モラルハザードだとかインセンティブだとかインキュベーターだとかを頑張って日本語にした。
 しかし今のところモラルハザードのことを指して「倫理崩壊」とか言っているところは見た覚えがない。

 だいたい「インキュベーター」という単語がイケてたのは、会社を興す手助けのことを孵卵器にたとえたその発想がイケてたからであって、そのままカタカナで使ったりわかりやすく「起業支援機関」と訳したんでは全然イケてないのである。俺はいま憶測でモノを言っている。
 ここは「孵業」とかそういう熟語をあみ出すくらいの気概がほしかった。

 そもそも我々は明治時代にこの種の翻訳を繰り返してきたではないか。
 dutyという言葉にぶち当たっては「義務」という熟語を作り、
 rightという要素に出くわしては「権利」という熟語を作ったのである。
 先人に習って新しい熟語を作ってしまえばよかったのだ。
 わかりやすく言い換えるという目的は達成できてないが構わないのだ。

 わかりにくいのはカタカナ語ばかりではない。
 保証(security)と保障(guarantee)の使い分けを僕は即答できなかった。
 文化と文明の違いは?概念と観念はどうか?
 カタカナであるかどうかに限らず、新たに輸入した言葉の中には、いまだに辞書に頼らなければあやふやなものがあるんじゃあないか?

 真に駆逐すべきは、わかりにくい言葉をあえて使って煙に巻こうという根性なのであって、断じてカタカナ語そのものではない。

「公共事業については、これまでの改革努力を継続する中で、未来への投資となる、真に必要な社会資本の整備を、重点化や効率化を徹底しながら実施します」

 みたいなことをおっしゃる政治家の先生のお話も、これからは、

「ああ温泉にゴーしたい!そしてアフター温泉マッサージをしてビアをドリンクしたい!これがナウのマイスモールドリームです」

 とブログにライトするファニーなナイスガイにキャッチキャッチキャッチされていると思って聞くことにする。
 
■2006-12-18
今いくよゆくよ
 「行く」の読み方は「いく」なのか「ゆく」なのか?
 普段たいして気にも留めないが、どちらが正しいのかを決めるとなると困り果てる。

 小学校の国語教科書を参照すると、「行」という漢字はまず「いく」の読みを習う。
 しかし国語辞典で「いく」を調べると、「ゆく」へ飛ばされる。
 「いく」が慣用で、「ゆく」のほうが正式なのか?
 たしかに「ゆく」のほうがカッコイイというか詩的文学的な響きがある。
 我はゆく。さらば昴よ。

 とりあえず広辞苑を参照すると、「いく」と「ゆく」は奈良平安の時代から併存していたということが書いてある。どうやらどっちが古いとか正しいとか古式ゆかしいとかそういう問題ではないらしい。

 しかしこの二つ、完全にコンパチなわけではなく、どちらかしか使えない文脈がある。
 「ゆくてをはばむ」とか「ゆくゆくは」なんてのは「ゆく」しか使えないし、
 「たいぶ歳がいってる」とか「~とまではいかないが」なんてのは「いく」の文脈だ。
 というか「いく」は「いった」にできるが「ゆく」は「ゆった」にはできない。
 そう考えるとどうも「ゆく」の正当さが怪しく思えてきた。

 漢字テストや作文で「言う」のことを「ゆう」と書いたらバツだ。
 実際の発音ではしばしば「ゆう」になるので、子どもはかなり間違うらしい。ここは国語では徹底的に指導する。
 だが「ゆく」をカッコイイと思うならば、「ゆう」も容認してやるくらいの気概を持たねばダブルスタンダードではないのか?

 よく考えたら「良い」も「よい」と「いい」が併存する。
 こちらも「いく」と同じく、ア行のほうが口語的という認識だ。
 だが漢字で書いた場合はたいてい「よい」と読むので、「いい」が「良い」の中から独立戦争を仕掛けたような状態だろうか。

 ヤ行とア行の分離独立が進む「良い」
 ヤ行とア行のにらみ合いが続く「行く」
 完全にア行の支配下となった「言う」

 冒頭のつまらない疑問から、意外な領土問題に発展した。
 とりあえず「ゆう」が逆転勝訴を勝ち取るかどうか、静観したい。
 
■2006-12-05
言葉の射程外
 言葉にも射程距離がある。
 そして、なんらかの力によって言葉が急に射程距離の外に飛び出した場合、その言葉の意味が変容してしまうことが多々ある。

 たとえば「まったり」
 方言という射程距離を飛び出したこの言葉から、「薄味のまろやかさ」を感じ取ることはもはやできまい。
 一般化により、味覚の世界だけでなくマルチに活躍している言葉である。

 たとえば「ホームページ」
 もともと、一部のインターネット野郎までが射程距離だったこの言葉は、パソコンとインターネットの急激な普及によりその射程距離をオーバーした。
 その結果現在では、webサイト一般のことを示す言葉として定着している。

 たとえば「イナバウアー」
 僕らは金メダルフィーバーの中で、あっという間に「イナバウアー=反る」の等式が成り立っていったのを体験している。
 これはもともとの射程距離が極端に狭かったせいもあろう。

 たとえば「萌え」
 これはもともと定義があやふやしていたが、「『萌え』を三次元の女に対して使うなんて理解不能」という主張を見ると、どうやら射程距離を突き抜けたようだ。
 もっとも最近は「萌え=メイドさん」という大づかみ極まりない認識になりつつあるのが心配ではある。
 これはサブカル界隈から一般化されたせいで射程距離を突き抜けた例だが、そんなサブカル界隈の中ですら「ツンデレ」の拡散・変容に対する苦言がある。
 こうなるともう一種の入れ子構造だ。

 ところで、さきほどの「『萌え』を三次元の女に対して使うなんて理解不能」というような主張は、「『鳥肌が立つ』を感動の表現に使うなんて理解不能」というような年配の方の苦言に似ている。
 年代の経過による言葉の変容と、大衆化による言葉の変容は、「言葉を使う人間の性質が多様化する」という点で、同質である。
 年代経過による変容を「言葉の乱れ」とするのに反対の立場である僕としては、大衆化による変容も認めなければなるまい。
 言葉の意味は常に多数決。
 真逆の意味になるのは困るが、多少の変容は許容していきたい。

 しかしッ!
 「確信犯」は許可しないィィィーッ!!

 どこかのblogで言っていた…
 (考えてみれば「blog」も大衆化によって変容しつつあるな)
 「確信犯」の代表は「プッチ神父」であると!
 プッチ神父は倒される瞬間まで自分の「正義」を疑わなかった!
 ただの開き直ったルール違反者にはない…覚悟と凄みがあるッ!!
 プッチ神父と並ぶ自信があるヤツだけが「確信犯」を名乗れェーッ!!

 …と思ったが、これで「あっ!理解『可』能」と「納得」してくれるのはジョジョ紳士だけなので、別に「確信犯」の誤用をいまさら気に留めたりはしない。
 むしろ誤用された確信犯に、想像を超えた正義があると脳内で解釈しよう。

 確信犯で傘を盗んだ奴は…
 じつは「傘の自由化」を掲げて戦う革命家である!!

 おお、なんだか日本中が戦国時代に突入したような感じだ。
 
■2006-11-04
「いじめはなかった」
 現職の中学校の先生から興味深い話を伺った。

 なぜ校長は記者会見で「いじめはなかった」と言うのか。
 誰がどう考えてもいじめがなかったわけがないのに。
 死者まで出ているのに。

 責任逃れ?それもあるかもしれない。
 だが、校長個人の思惑はどうあれ、
 学校としては"そう言わざるを得ない"のだ。

 「いじめはあった」と言えればどんなに楽か。
 いじめがあったかどうかの確認が取れていないはずがない。
 しかし「あった」と言ってしまえば、マスコミの次の質問は当然、

 「ではいじめていたのは誰か」

 という方向にうつる。
 死者まで出た以上、学校は人をいじめ殺した生徒なんてすぐに把握している。
 だが「こいつとこいつがやった」と言うわけにはいかない。
 もし言えば、過剰報道のマスコミは即座に興味本位の犯人探しを始める。
 ネットには即座に名前と顔写真が出る。

 人をいじめ殺すような連中、家族もろとも永遠に抹殺されてしまえばいい、という考えも理解できないことはない。
 しかしそれを行うのは断じてマスコミではない。
 犯人として報道に乗れば、弁解の余地なくゲロ以下の悪人だ。間違ったって謝罪はしちゃくれない。

 だから校長はとにかく「いじめはない」と発言して、マスコミの矛先を学校批判へと向けるしかないのだそうだ。
 過熱報道が冷めるのを待ち、学校と少年法とが加害者の対処を決める。
 少年法がヌルいのは確かだが、マスコミが人を裁くようなら世も末だ。裁判員制度の導入で、マスコミの影響力はさらに加速するだろうし。


 「いじめ問題では学校の対応ばかりクローズアップされるけど、死んだ奴の次に精神ダメージ負ってるのは加害者じゃね?なんでそっちはニュースにならんの?」って日々思っていたが、この視点からのお話で合点がいった。
 
■2006-10-02
個人主義の殻
 みんなちがって、みんないい。
 夭折の詩人、金子みすゞの残した名文である。
 僕の知る限り、国語教科書はどれもおおむねなんらかの形でこの作品に触れている。
 競争を煽るのを過剰に恐れるあまり、運動会の徒競走ですら順位をつけることをためらってしまうような時期に、この言葉はまさにうってつけの考え方だったのであろう。

 しかし「みんなちがって、みんないい」というのは要するに「僕らは世界で一つだけの花なんだからその花を咲かせるために一所懸命になろうぜ」という、人間の価値としての意味であって、各自の行動にまでこれを拡大解釈してしまうのはよろしくないように思う。

 例えば、他人に害を及ぼす可能性がある主義主張である。『ジョジョの奇妙な冒険』第2部でエリナばあちゃんは、黒人の少年スモーキーを豚呼ばわりしたマフィアに「個人の主義や主張は勝手!ゆるせないのは私どもの友人を公然と侮辱したこと!」と言い、ジョセフにきちっとやっつけさせる。みんなと違う主義主張を持つのは自由だが、ジョセフの友人を侮辱してしまうような主義主張は公然と振り回さないほうが賢明であろう。これはわかりやすい。

 しかし、誰にも迷惑をかけない個人的な好き嫌いの問題も「個人の勝手」で片付けてしまうのはもったいない場合があるのではないだろうか。
 もちろん「あの作品は嫌い」「僕は好き」という意見の食い違いを、論争によってどちらかに統一せよというのは不可能だ。だから僕らは「多彩な価値観を認める」ということでそれらの食い違いを受け流すし、それは社会生活において大変重要な行動だ。
 だが、例えば、ジョジョを「面白いから読んでみろよ」と他人に薦めたときに「えー、絵が嫌い」という反応が返ってきたとする。僕はいままで「合わない奴にはとことん合わない絵柄だから仕方ないな」と多彩な価値観を認め、この問題を流していただろう。だが、そこで価値観の違いをあっさりと認めずに、もうひと押し別方向から、たとえば「絵は濃くて合わないかもしれないけど、ジョジョには名セリフがいっぱいあるんだぜ」と言ったら「グッ」とくる人がいるかもしれない。

 実際僕も、リアルタイムで見かけたころは敬遠していたジョジョを、あちこちで見かけるジョジョネタの実物を見たいがために読み始めた。ひょっとしたら相手が興味を示してくれるかもしれないと思ったら…万が一でも!相手が読み始めるっつー可能性があるのなら!その「もう一押し」を言わねえわけにはいかねえだろう…!
 あっさりと「個人の勝手」として捨ててしまうのは、違った価値観をやり取りする機会を失うことであり、双方にとって勿体無いことであるように思うのだ。

 なのでジョジョを読みなさい。ゲームも映画も盛り上がってきているところだ。

 この一行を書きたいがためにこれだけの理屈を並べてみた。
 
■2006-09-30
「ぜんぜん」の用法
 「ぜんぜん面白かった」のように、「ぜんぜん」の後に肯定の形が来るのは間違った日本語である、という主張はだいぶ前からされている。僕も国語の時間に教え込まれた。
 今は「くだけた表現の一部」として扱われ、だいぶ寛容なようだが、やはりテストで書いたら得点はないだろう。

 ここで、夏目漱石など近代文学の例を挙げて、かつて「漸々」は「すっかり」とか「全面的に」というような意味で肯定の文脈でも使われていた、と主張することもできる。
 しかし、それは「否定形を伴って使うのは歴史的に見てもあたりまえ」という主張を退けるにすぎない。
 そもそも、今使われている「ぜんぜん面白かった」と、かつて使われていた「漸々」とは、意味がぜんぜん違うような感じがするのである。

 いまわざと「ぜんぜん違う」と言ったが、否定形を伴うのが原則であるのなら、「ぜんぜん同じでない」とすべきである。
 しかし「ぜんぜん違う」「ぜんぜんダメだ」という言い方は比較的問題にされていないように思う。
 形は否定形ではないが、文脈が否定であるからだ。

 ここで冒頭の「ぜんぜん面白かった」に考えが戻るわけだが、我々がこの言葉を使うのはどんな場面であろうか。

 「ゲド戦記どうだった?」
 「ぜんぜん面白かったよ」

 文面だけでみると、「ぜんぜん」に肯定の形がくるのは違和感があるのかもしれない。
 だが、実際のところだいたいにおいてこれは、

 「ゲド戦記どうだった?(アタシの言ったとおりスッゲ面白くなかったでしょー?)」
 「(貴殿はあたかも拙者が貴殿と似かよったセンスを所持していることを予期しているかのような態度をとっているが残念ながら)ぜんぜん(そのような事はないのである。)面白かったよ」

 という意味合いでなされている会話なのである。
 文の形としては肯定であるが、その意味は否定なのだ。

 つまり、「ぜんぜん」に伴っているのは形ではなく意味としての否定なのであり、自分は「否定形であるべき」という考えにも、「明治時代のような総合的な使い方に戻っているだけ」という考え方にも同調しないことにした。
 今後「ぜんぜん」の扱いは俗用から慣用へ移り、市民権を得ていくのではないか。
 もし未だにこの問題を取り上げている文章があったら、こういう観点からも見てみようと思う。

 いや、今回は(オチなんて用意されてなくて)ぜんぜん(ネタが入っていない)真面目な日記だよ。(だってオチを考えてたら一週間たっちゃいそうだったんだもん。)
 
■2006-07-31
温泉宿で聞いたお話
 「守る」の「ま」は、「目」のことらしい。
 すなわち「守る」の語源は、視線を送り続ける・みつめることなのだそうだ。

 いまは戦乱の時代ではないので、徐々に女社会となりつつあるが…。
 かつて男社会だったころ、女たちは、男にみつめられることで、他の男たちから守られていたのだ。

 では、男にみつめられる女になるには、どうしたらいいか?
 いわく、まずはチャラチャラした服装、言動を避けることだ、と。チャラチャラした女は確かに多くの視線を集めるかもしれない、が、継続的にみつめられるレベルには決してたどり着くことはない。

 この話を聞いて成程と思った。

 僕は以前から、女性に関する「美人」という指標に懐疑的だった。
 「美人」という概念は、その時代、その場所によって極端に異なる流動的なものだ。そして、その実態はおそらく「大衆の好みの平均値」だろうと思っている。

 人々は、自分の平均から離れている部分……両目が離れてるだとか、鼻が大きいだとかを「美人でない」としてコンプレックスにする。美容整形はつねに平均に近くなるように行われる。
なぜなら、それは、マスコミに取り上げられる「美人」が、みな平均に近い顔をしているからだ。これは彼女らが「多くの人の視線を集める」という任務を背負っている以上当たり前のことだろう。こうして、日本人の好みの平均値をとるような顔であることが「美人」である、という思い込みが生じる。

 しかし、多くの視線を集めることは、継続的に見つめてくれる「運命の人」が現れる確率とは無関係である。出会いが多くなるかも、ということを考慮すると関係あるのかもしれないが、社交的であるかどうかという捉え方をすればやはり直接は関係あるまい。
 平均値から外れているからといって、「運命の人」の出現率にたいした影響が出るわけがないのだ。平均とはシーソーの真ん中。そこには誰も乗っていない。と紅子さんも言っていた。

 だから、僕は「芸能人に例えると○○に似てる」という評し方が嫌いなのだ。



 なおこの話はこのあと、みつめる意志という意味での「念」の話になり、負の「念」の力の話になり、丑の刻参りの藁人形を目撃する話になり、神主として丑の刻参りと対決する話になり、丑の刻参りの傾向などの話が非常に恐ろしく興味深かったのだが、いたずらにネタにできないので全部割愛。