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◆不定期日記ログ◆

■2006-12-05
言葉の射程外
 言葉にも射程距離がある。
 そして、なんらかの力によって言葉が急に射程距離の外に飛び出した場合、その言葉の意味が変容してしまうことが多々ある。

 たとえば「まったり」
 方言という射程距離を飛び出したこの言葉から、「薄味のまろやかさ」を感じ取ることはもはやできまい。
 一般化により、味覚の世界だけでなくマルチに活躍している言葉である。

 たとえば「ホームページ」
 もともと、一部のインターネット野郎までが射程距離だったこの言葉は、パソコンとインターネットの急激な普及によりその射程距離をオーバーした。
 その結果現在では、webサイト一般のことを示す言葉として定着している。

 たとえば「イナバウアー」
 僕らは金メダルフィーバーの中で、あっという間に「イナバウアー=反る」の等式が成り立っていったのを体験している。
 これはもともとの射程距離が極端に狭かったせいもあろう。

 たとえば「萌え」
 これはもともと定義があやふやしていたが、「『萌え』を三次元の女に対して使うなんて理解不能」という主張を見ると、どうやら射程距離を突き抜けたようだ。
 もっとも最近は「萌え=メイドさん」という大づかみ極まりない認識になりつつあるのが心配ではある。
 これはサブカル界隈から一般化されたせいで射程距離を突き抜けた例だが、そんなサブカル界隈の中ですら「ツンデレ」の拡散・変容に対する苦言がある。
 こうなるともう一種の入れ子構造だ。

 ところで、さきほどの「『萌え』を三次元の女に対して使うなんて理解不能」というような主張は、「『鳥肌が立つ』を感動の表現に使うなんて理解不能」というような年配の方の苦言に似ている。
 年代の経過による言葉の変容と、大衆化による言葉の変容は、「言葉を使う人間の性質が多様化する」という点で、同質である。
 年代経過による変容を「言葉の乱れ」とするのに反対の立場である僕としては、大衆化による変容も認めなければなるまい。
 言葉の意味は常に多数決。
 真逆の意味になるのは困るが、多少の変容は許容していきたい。

 しかしッ!
 「確信犯」は許可しないィィィーッ!!

 どこかのblogで言っていた…
 (考えてみれば「blog」も大衆化によって変容しつつあるな)
 「確信犯」の代表は「プッチ神父」であると!
 プッチ神父は倒される瞬間まで自分の「正義」を疑わなかった!
 ただの開き直ったルール違反者にはない…覚悟と凄みがあるッ!!
 プッチ神父と並ぶ自信があるヤツだけが「確信犯」を名乗れェーッ!!

 …と思ったが、これで「あっ!理解『可』能」と「納得」してくれるのはジョジョ紳士だけなので、別に「確信犯」の誤用をいまさら気に留めたりはしない。
 むしろ誤用された確信犯に、想像を超えた正義があると脳内で解釈しよう。

 確信犯で傘を盗んだ奴は…
 じつは「傘の自由化」を掲げて戦う革命家である!!

 おお、なんだか日本中が戦国時代に突入したような感じだ。