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◆不定期日記ログ◆

CATEGORY 地歴

■2024-06-13
23周年
 弊サイトは23周年を迎えた。
 23……23というと……もう数字で何かこじつけるのも難しくなってくるが……アッ、東京の特別区が23区だ。

 ちょうど娘氏が「47都道府県の名称と位置」を学ぶ学年なので書いておこう。
 小学4年生の社会科においては、白地図に全国の都道府県名を入れる力が求められる。そして中学校になるとこれに都道府県庁所在地が加わる。
 したがって、そういった力をはかるための小テストのようなものが行われるわけだが……

 俺がずっと気持ち悪いなと思っているのが、そういったテストで「東京都の都道府県庁所在地」に何と書くべきかということだ。
 答えとしては、帝国書院の地図帳には「東京」と書いてあり釈然としない。

 東京都の公式見解では、

 結論から申しますと、
1.都道府県庁の位置は、条例でこれを定めるよう、地方自治法で定められている。
2.東京都では「東京都庁の位置を定める条例」により、東京都新宿区西新宿二丁目と定めている。
 ということになります。

東京都 政策企画局
 となっており、上記のページでは国土地理院が「東京の23区は市町村ではないので名称を記載していないが、便宜上東京23区の総称として『東京』という表示をしたのではないか。」といっている。
 あわせて「昭和18年まで東京市が存在していた名残」という可能性も示されている。要は過去の話だ。

 東京23区が、我が静岡市の葵区・駿河区・清水区とはっきり異なるのは、選挙で選ばれた議会と区長を持っている点だ。なので俺は、東京23区をそれぞれ市町村のような存在と捉えて、東京都の都道府県庁所在地は「新宿区」で良いと思う。
 だって都道府県庁所在地を比較したときに、東京23区が全部合わさって襲ってくるのはあまりにも大人げなくない? そりゃ確かに独立した消防や警察を持っていないという違いはあるけど、予算を独自に持ってるんなら1区で勝負してくれよ。
 
■2024-04-08
開きかけの幕府
 真新しい教科書が配布される季節になり、皆様におかれましては、「鎌倉幕府の成立は今は『1192いいくに作ろう』ではない」という話を無数に聞き及んでいるものと拝察する。
 代わりに「1185いいはこ作ろう」になった、という追加情報をお持ちの方もおられよう。


 しかし、別に頼朝が「ここを幕府とする!!」と言った年が1192年でなく1185年だったことが判明した訳ではない。
 1185年というのは、頼朝が義経追討のため各地に守護・地頭を置くことを許されたタイミングであり、これをもって頼朝の支配体制ができたといえるのではないか……と考える人が多くなった、というだけの話である。
 実際、鎌倉幕府と呼ばれる支配体制はじわじわと作られてきたものであろう。どこから鎌倉幕府になったかを決めるのは難しい。この情報化社会において、もはやテストで年号を答えさせるような問題は出題されないので、ゴロ合わせまでして鎌倉幕府=1185年という暗記をする理由もない。
 
 要は「1192作ろう鎌倉幕府」を、鎌倉幕府の成立年ではなく、歴史的事実である頼朝が征夷大将軍に就任した年のことだと認識を改めれば良い。
 征夷大将軍になることは、幕府を開くための重要な要素といえる(平清盛や豊臣秀吉の政権は幕府として捉えられていない)ので、「1192作ろう鎌倉幕府」のままでぜんぜん良い。自信を持って生きていきましょう。


 ここからはめんどくさい余談になる。
 そもそも鎌倉時代における「幕府」とは、主に「霞ヶ関」「ホワイトハウス」みたいに「執政者がいる場所=執政者」を示す言葉にすぎず、これが一般に「武士の作った政治組織」を指すようになったのは江戸中期以降のことらしい。
 つまり頼朝も尊氏も家康も誰一人「幕府を開くぞッ!!」とは思っていないということで、我が国の歴史上、幕府を開いた人物というのは存在しないことになる。思った以上にめんどくさいことになったぞ。

 さらにめんどくさい情報を追加すると、おなじみの頼朝の肖像画が「実は本人ではないのでは」という説が濃厚となったことで、教科書から消えつつある。

源頼朝像の肖像というと、かつては京都府の神護寺にある国宝「伝源頼朝像」が教科書にも大きく取り扱われる定番でした。(中略) しかし、1995年に美術史家の米倉迪夫氏によって、この「伝源頼朝像」は足利尊氏の弟「足利直義」の肖像であるという説が提起されました。

帝国書院 よくある質問
 なので現環境において「頼朝が鎌倉に幕府を開いた年は今は1185年になった」と豆知識ボンバーを仕掛けられた場合は、「そもそも幕府とは……?」というソクラテス論法を置いてカウンターを取り、ダウン後に「ところでこの肖像画は……」と起き攻めに移行するのがおすすめだ。そんなことでマウントを取り合うんじゃあない。
 
■2023-02-19
おれはグレート
 かつて日が沈まない帝国として名をはせた大英帝国であるが、「大英帝国(Empire of Great Britain)」の「グレートブリテン」の部分について、これは大ブリテンと小ブリテンという地名上の問題で、別にイギリス人がいばって名乗ったわけではないという風に理解している。

 それで幕末の我が国では、そのへんの経緯を理解せず、日英和親条約を翻訳するときに「あっちが大英帝国ならこっちは大日本帝国でござるな!」みたいな感じで国名をつけてしまったのではないかと疑っているんだけど、ここについてきちんと調べてウラが取れてしまうと「じゃあ今も大韓民国って名乗ってる国は何なんだよ」ってところに話が行くので、やめておこう。


 しかし、そんなイギリス人が入植したオーストラリアにはやたらグレートな地名が頻出する。グレートビクトリア砂漠、グレートバリアリーフ、地図を見ているだけでもだいぶ目立つ。イギリス人、実はいばってたのか? やっぱりグレートが大好きだったのか? 調べてみました!

  • グレートビクトリア砂漠
    女王陛下由来であることを示すためグレートは必要。
  • グレートサンディ砂漠
    リトルサンディ砂漠もあるらしいのでグレートは必要。
  • グレートアーテジアン盆地
    ばかでかい鑽井盆地→大鑽井盆地なので固有名詞化のためグレートは必要。
  • グレートディバイディング山脈
    ばかでかい分水嶺→大分水嶺山脈なので固有名詞化のためグレートは必要。
  • グレートバリアリーフ
    ばかでかい堡礁→大堡礁なので固有名詞化のためグレートは必要。
  • グレートオーストラリア湾
    オーストラリア最大の湾であることを示すためグレートは必要。

 なんてこった……ただいばってるだけの無駄なグレートなんて一つもないじゃないか……!
 すまんイギリス人、オーストラリア人、俺は君たちのことを誤解していた。やはりあのとき「大日本帝国」と名乗ってしまった我々が浅はかだったのだ。大韓民国は……紀元前の馬韓・辰韓・弁韓を合わせて大韓ってことでなんとか切り抜けてくれ。では解散!!
 
■2022-08-26
いよっ国が見える
 41歳になった。
 冒険者であり航海者であり征服者であるクリストファー・コロンブスが、大西洋を渡りアメリカ大陸への航路を切り開いたのが41歳のときであったらしい。コロンブスはすごいなあ。ぼくにはとてもできない。

 ところであいつはなんでコロンブスなんだい?
 イタリア生まれなんだから自分のことは「クリストーフォロ・コロンボ」だと言っていたのではないか?
 もしくはスペインの航海者として名をはせたんだから「クリストバル・コロン」で通していたのではないか?
 いったいいつ英語で名乗ることがあったんだい? そしてなんでわざわざラテン語風の読み方にしたんだい? なんで我々日本人がそれに付き合わなければならないんだい?

 コロンブスは、アメリカ大陸に到達していながら、そこをインドだと信じていたため、新大陸のネーミングライツはアメリゴ・ヴェスプッチに取られてしまった。しかし、コロンビア共和国をはじめ、彼の名前を冠する地名は新大陸の各所に残っている。

 さてここで問題です。
 アメリカの首都「ワシントンD.C.」の「D」はDistrict(区)、では「C」は何の略?
答:コロンビア

 どうやら、「コロンビア」はアメリカ(アメリカ合衆国、もしくは南北アメリカ大陸)の別称として認識されているようだ。それって大丈夫なの? コロンビア共和国が独立したときよくその名前が通ったな。
 そんなだからブリティッシュコロンビア州がイギリスでもコロンビア共和国でもなくカナダだったりしてよくわかんないことになってしまうんだよ。


 ところで、10月12日前後は「コロンブスのアメリカ到達を祝う日」として複数の国で祝日になっているが、これを征服された立場から見直そうという動きがある。征服者としてやったことを考えれば妥当な話だとは思うけれど、コロンブスの評価をマイナスにひっくり返すと上記のさまざまなコロンビアが困ることになるのではないか。
 コロンブスをただの虐殺者として定義してしまうと、国や都市だけでなくコロムビアレコードやコロンビアピクチャーズも困ってしまう。影響力が大きすぎる。コロンブスはすごいなあ。ぼくにはとてもできない。
 
■2022-04-01
ソースのソースを確認せよ
 昔、「ソースとは食品に使う液状調味料の総称のはずなのに、なぜか日本ではソースと言えばウスターソースのことを指す」という指摘をした。
 そのときは「ケチャップと言えばトマトケチャップのことを指すので何も珍しくないんだが?」という自己ツッコミによって相殺され消滅した疑問であったが、これはもうちょっと深掘りしていきたい話だ。
 なぜ我々はウスターソースに「ソース」の総称を許しているのか?

 歴史をたどる前に、ウスターソースとは何かをはっきりさせておこう。ウスターソースとは日本農林規格上では「ウスターソース」「中濃ソース」「濃厚ソース(とんかつソース)」の総称であり、これは粘度で分けられている。一番さらさらなのがウスターソースだ。


 ソースは明治時代の初めに、洋食とともに日本に入ってきた。そして明治期の日本人にとってソースとは「洋食にかける醤油」であった。料理人の間ではクリームコロッケに入れるベシャメルソースなどの多種多様なソースが使われたが、一般家庭においては、さらさらで醤油のように使えるウスターソースだけが「ソース」として認知されたというわけだ。
 すぐに日本でもウスターソースの生産が始まり、明治後期にはイカリソース、カゴメソースなど今につながる様々な商品が「新味醤油」「洋式醤油」として登場した。ウスターソースは日本人の口に合うように変化していき、中濃ソースや濃厚ソースが開発されてもなお「ソースの総称」の座を保持し続けたのである。


 さて、ではそんなウスターソースはどこから伝来したのだろうか? 広東料理のオイスターソースが間違って伝わったのか? そうではない。ウスターは野菜のソースで、オイスターは牡蠣である。関係ない。

 ウスターソースの発祥には諸説あるが、イギリスで生まれたことは確かである。
 記録として残っているのは日本の開国より20年ほど前、1838年にイギリスのウスター社が発売したものだ。これは瞬く間に全英に広がり、覇権をとった。
 時はまさに大帝国主義時代であり、ウスター社はこれを世界中に輸出し、莫大な富を手にした。工場が林立し労働者の住む町が広がっていくと、この町は「Worcester」の名で呼ばれるようになり、町の中心にあった「キリストならびに処女マリア主教座聖堂」も「ウスター大聖堂」と名前を変えた。いわゆる企業城下町である。
Worcester Cathedral
英語版wikipediaのWorcester Cathedralの項目
 さらにウスター社は、日本でいうところの醤油皿にあたる器にも目をつけ、ソースをディップするための陶磁器の生産にまで手を広げた。これも瞬く間に広がり、最終的には英国の陶磁器界で初めて王室に認められるまでになり、ロイヤルウースターの名を現在まで継承し続けている。


 これだけの影響力のあるウスター社であれば、日本でソースの総称を我が物にすることなど容易なことだったのだろう。現在もウスターの町ではソースを生産しているが、驚くべきことにウスター社は俺が考えた完全な嘘である。ちょっと調べれば……つまりソースのソースを確認すればわかるとおり、イギリスのウスターシャー州の州都ウスターで発祥したからウスターソースなのであり因果が逆なのだ。
 こういうパターンは見破りにくいが、俺だってまさか「アマゾネスみたいな部族がいる川だからアマゾン川」なんては信じたくなかったので、あらゆる因果を疑っていこうな、というエイプリルフールの教訓なのであった。
 
■2021-12-04
エスパルスは清水だろうが
 「エスパルスのある街 静岡」という看板を見るたびに、清水市で生まれた俺の心がかき乱される。
エスパルスのある街 静岡
撮影:静岡市役所葵区役所裏

 ご存じの通り2003年に清水市は静岡市と合併し、地図から市名が消えた。そのときのことは弊サイトにも記録されている。
 いまさら合併についてどうこう言うことはない。合併して名前が消えることも仕方のないことだった。
 しかし「清水エスパルスは静岡市のサッカーチームです!」と正面から言われると……いくさに敗れ……何もかもを略奪される弱者の気持ち……そんなものがこみあげてくる。清水だろうがっ……! エスパルスは清水だろうがっ……!

 だが、静岡市にはこれをアピールしなければならない理由があるということに最近気づいた。
 「チーム名に冠している地名と、ホームタウンの市町村名が異なるサッカーチーム」というのがほとんどないからだ。
 清水エスパルスというチームが存在しつづける限り、他県の人々からはまだ清水市があるように見えているということで、ここを静岡市がなんとかしたいと思うのも当然のことである。

 ということで、今J1にどのチームがいるのかも全く把握していない俺が、Wikipediaの知識だけでJ3までのチームを洗い出し、チーム名の地名とホームタウンの地名が一致していない例について調べたのでまとめておきたい。


 清水と境遇が似ているのが浦和レッズ大宮アルディージャで、浦和市と大宮市が合併してなんかひらがなの「さ」の書体の主張が強い市名になってしまったためにこうなっている。市内に大宮区・浦和区がある点も似ている。浦和のホームグラウンドは浦和区にないようだが。

 湘南ベルマーレ(平塚市ほか)については今でも「ベルマーレ平塚だろ」という気持ちが強い。広域ホームタウンが認められたのをいいことにオシャレな地名を名乗りやがって……と思って調べたら元々湘南だったらしい。加入時のJリーグの規定により「平塚」で加入せざるを得なかったのか。なら仕方ないか。

 ガンバ大阪(吹田市ほか)はなぜ「ガンバ吹田」じゃなかったのか。しかもお隣の大阪市にセレッソが存在しているのに、一足先にJリーグに「大阪」で登録するなんて、これは血なまぐさい戦争があったんじゃないか……? と思ったが、どうやらあまり違和感を持たれていないようだ。セレッソが大阪市、ガンバが大阪府北部という受け持ちなんだろうか。

 栃木FC(宇都宮市)もなんで栃木なの……? 愛媛FCは松山市だけでなく愛媛県全域をホームタウンとしているらしいのでそういうことなの? 県内の他のクラブチームが隆盛したら戦争になるよ? 同じ県内全域をホームタウンとしながら堂々と名古屋を名乗っているグランパスを見習った方がいい。名古屋って何県だっけ?

 そして歴史的に最強なのがカマタマーレ讃岐(高松市)とFC琉球(沖縄市)で、過去の国名を使うことで現在の面倒なイザコザをすべて無視することができる。ただ「清水」を「駿河」に変えることができるのなら、合併のときに静岡市は駿河市になっていたであろう。


 チーム名とホームタウンが異なる例はそこそこあることがわかった。特にさいたま市の2チームは盲点だった。つまり冒頭で述べたように、県外の人にとっては「清水エスパルス」がある限り清水市が健在であるように見えている可能性が高い、ということを自らの脳で実証してしまった感がある。フォーエバー清水市、フォーエバー清水エスパルス。
 
■2021-10-27
参勤交代はなぜ交代か
 江戸時代の「参勤交代」という掟がある。
 三代将軍徳川家光が武家諸法度に定め、制度化したものだ。

一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。

参勤交代 - Wikipedia
 これを口語訳したものがだいたいどの歴史教科書にも掲載されているが、ちょっと待ってほしい。武家諸法度には「交替」と書かれている。画像検索するといろいろな写本があることがわかるが、どれも「交替」と読める。誰も「交代」とは言っていない。

 交替と交代は何が違うのか? こういうのは検索するとドカドカ出てくる。なかには「違いと正しい使い分け」などと銘打っているものもある。言葉の使い方について「正しい」と断言できるメンタリティが俺にあったら、こんな文章は書いていないだろう。
 そういった記事たちの説明を総合すると、概ね「チェンジが1回だけのものは『交代』、ローテーションするものは『交替』である」と認識されているようだ。
 この説明に照らしてみれば、参勤交代は「交替」である。いったい誰が「参勤交代」などと書いたのだ?


 ちなみに前述のWikipediaには「参勤交代の『勤』は『覲(まみえる)』が正しいが、役人が誤って記録してしまって以来、このように書くのが一般的になった」というドすげえ一文があり、このドすげえ部分の出典が明らかでないため、おそらくこの疑問は解決しないであろうことが予感される。
 「参勤」すら怪しいのに「交代」についてどうこう言ったって仕方ないだろ……ていうか誰だよその役人……ちゃんとセプクしたのか? 誤植でセプクはしたくないものだ。

 とっかかりとしてWikipediaの出典情報をたどって『道路の日本史』(武部健一 著)を読み、「参勤とは国元から江戸へ赴く旅、交代または蹴封とは国元に帰還する旅をいう」という一文を確認した。しかし、参勤交代の語源についてはそれ以上の情報はなかった。
 「蹴封」とは見慣れない言葉で、ググッてもよくわからないが、こうなるとそもそも参勤交代の「交代」が我々のイメージするChangeやTake turnsと同義かどうかすら怪しくなってくる。これ以上は俺には荷が重いか……?


 いやまて、今Changeって言いました?
 閃いた俺はすぐにWikipediaを英語版に切り替えた!
 そしてそこに「Sankin-kōtai (alternate attendance)」という記述を見つけた!

 適当に「alternate attendance」でググって翻訳かけたら「代替出席システム」とか出てきて俺の腹筋を攻撃した。授業サボってんじゃねえ! 真面目に英和辞典を引くと、alternateが「交互の」、attendanceが「出勤」なので、参勤交代は英語に訳す際に「交互出勤」と意味をとられたわけだ。
 つまり……参勤交代は「交代参勤」と書いたほうが実態をイメージしやすい……ということだろうか? こう書くと大名たちがシフト勤務してる様子が目に浮かぶ。まあ1年単位のシフト勤務であることには違いなかろう。

 そういえば我々はシフト勤務のことを「三交代制」と呼び習わしている。これも先ほどの「交代/交替」の使い分けメソッドからすると「交替」であるべきだが、検索すると「交代」が倍以上引っかかる。言葉の使い分けに「正しい」も何もあったものではないということがおわかりいただけたところで、参勤交代は現代の感覚で言うと「交代」で良いのではないか、という実感を得られたので調査をおしまいにしたい。

■今回調べきれなかったこと:
  • 「交替」が「交代」になった時期
  • 「参覲」を誤植したやつの末路
 これは古文書ガチ勢に聞かないとわからないやつかもしれない。
 
■2021-04-30
パラオのことば
 太平洋にうかぶパラオという島国がある。

 大航海時代にスペイン領となり、スペインが衰退するとドイツ領となり、第一次世界大戦後に日本領となった。それから第二次世界大戦が終わるまで日本領であり、戦後アメリカの統治を経て独立。それゆえパラオ語には外国語から借用された言葉が数多くある。
 特に興味を引くのはパラオ語に取り入れられた日本語の数々で、Wikipediaの「パラオ語」の項目にも多くの例が挙げられている。

 歴史的経緯から、パラオ語における日本語からの借用語は非常に多い。…(中略)…日本語教育を受けていない若い世代や子どもたちも「それが日本語由来であると意識せずに」用いており、定着につながっている。

パラオ語 - Wikipedia
 「デンキ」「デンワ」「ベントウ」などの単語が外来語として使われているのみならず、何かが得意なことを「モーレツ」と言ったり、ビールを飲むことを「ツカレナオス」と言ったり、「おいしい」の意味で「アジダイジョウブ」と言ったりするなど、独自の進化を遂げた日本語が生きているらしい。


 しかし……「Chazi daiziob(アジダイジョウブ)」は地理の教科書にすら載っているが、よく考えると妙ではないだろうか。「おいしい」に相当する言葉が外来語? じゃあ日本人が来るまでパラオの人は旨いものを食ったとき何て言っていたんだ?
 仮に何か「おいしい」に相当する現地の古語があったとして……旨いものを食ったときの言葉なんて、どの国だって「セボン!」だの「ボーノ!」だの「ハオチー!」だの短い発音でパッと出るものだろう。それが「味・大丈夫」なんていう2語の外来語に置き換わるか? 置き換わるとしたら「おいしい!」のほうじゃあないのか? 不自然だ。

 さてはパラオにやってきた兵隊さんはろくに補給もなく、味が大丈夫かどうか怪しいものを食べるのが日常だったのか……現地の人がその様子を語り継ぎ……悲しい物語だぜ……いやまて、第二次大戦が始まる20年前からパラオに日本人はいたはずだ。この仮説はおかしい。


 しかしwebの海には普通にアジダイジョウブの情報があふれており、「そうはならんやろ」「なっとるやろがい!!」の力で納得するしかない……と思っていた。しかし今月のはじめ、突然Twitterの俺のタイムラインに、在パラオ日本国大使館の公式アカウント(@OfPalau)の「日本語由来のパラオ語」についてのバズツイートが流れてきたのである。
 俺は勇気を出して上記の質問をリプツリーにぶらさげた。相手は大使館である。普段の俺ならこんな軽薄にリプライなどできない。しかしなにしろバズっているので、多くのリプライや引用RTに埋もれるかもしれない。そんな尊大な羞恥心と、臆病な自尊心が俺にリプライをさせた。
 そして、その結果、在パラオ日本国大使館からのお返事をいただくことができた!

古来のパラオ語のみで「おいしい」を表す「ウンギル・ア・テレムテムル」と言っていたかもしれません。
現在、特に若い世代は「ウンギル・ア・アジ」や「オイシイ」を使います。「アジダイジョウブ」はあまり一般的ではありません。

@OfPalau 午後7:03 · 2021年4月8日
 やはり「おいしい!」は使われていた! よかった……味が大丈夫かどうかわからないものばかりを食べていた兵隊さんはいなかったんだ……(いたと思うよ)。
 疑問が晴れ、大使館のTwitter担当者様に深く感謝するとともに、このアジダイジョウブの補足情報をweb上に刻み込むべく、こうして記事に残しておくことにします。
 
■2021-04-01
ギニアのひみつ
 西アフリカにギニアという国がある。

●ギニアのアニギ。僕が考えたさかさことばです。(埼玉県 ドド)
●アニギとはなにか。説明求ム。

「ゲーム帝国〈Vol.2〉」p127より
 そもそも「ギニア」の語源がよくわかっていないらしい。ギニアとはなにか。説明求ム。
 そして不思議なことに、そんなギニアの名を冠する国が多数ある。
  • ギニア共和国 🇬🇳
    「ギニア」といったらだいたいこの国……と言いたいが、そもそもギニアという機会があまりないのでいまいち自信がない。ギニア人といえばオスマン・サンコン氏だがこれも今や通じるか怪しい。大西洋には面しているが、ギニア湾には面していない。
  • ギニアビサウ 🇬🇼
    ギニアの北隣の国。ビサウは首都の名前。なぜそこまでしてギニアを名乗る必要があったのか。まあ我が静岡県にも伊豆市の北隣に伊豆の国市があるので人のことは言えない。そういうものなのだろう。伊豆市のように、「ギニア」という地名がギニア共和国の範囲よりはるかに大きいのだと考えれば理解はできる。
  • 赤道ギニア 🇬🇶
    ギニア湾に面した国土を持つが、首都は大陸上でなく、カメルーン洋上の島にあるという不思議な国。なお赤道は通っていない。何故なんだ。エクアドルから優良誤認と訴えられたら勝てないと思う。
  • パプアニューギニア 🇵🇬
    アフリカではなく日本の南にあるオセアニアの国だ。パプアとニューギニアが合併してこの国になった。この地域にたどり着いたスペイン人の探検家が、住民や気候がギニアに似ていると判断してニューギニアと名付けたという説がある。そもそもギニアの範囲が広すぎるのでは。
  • ガーナ共和国 🇬🇭
    チョコレートでゆうめいな国だ。ギニア湾に面しておりなんか語感が似ているが関係なさそう。
  • ガイアナ共和国 🇬🇾
    南米大陸の北のほうにある国だ。これは明らかにギアナ高地に由来しておりギニアとは関係ない。
いろんなギニア
 ギニアについての謎は深まるばかりだ。


 ところで、世界には人名を冠した国名がいくつか見られる。
 コロンビアはコロンブスに、ボリビアはボリバルに由来している。
 ではギニアは……ギン……?


 ギン。その名に心当たりのある方もおられよう。
 大長編海賊漫画『ONE PIECE』には、ロロノア、アルビダ、バーソロミュー、ティーチなど実在の海賊から名前を採ったキャラクターが多く存在する。
 そして序盤も序盤、サンジが加入するエピソードでクリーク海賊団のナンバー2として登場したのが「鬼人のギン」である。敵ながら義侠心にあふれた男で、サンジを圧倒する武力を持ち、ピラフを旨そうに食わせたら右に出るものはいない。最終的に「偉大なる航路でまた会おう」と言って去ったが、どうやらそれから20年以上も音沙汰がないらしい。

 ギニアの真実はここにあった。つまりアユタヤ日本人町出身のギンという海賊が実在し、世界中を大暴れした結果アフリカのギニア湾に名を残した。そして最終的にニューギニア島に居を構え骨を埋めた。そういう隠された伝説があり、尾田先生はそれを取材により知っていたのだ。
 これが事実であればギンの残した影響は多大であり、ONE PIECEのギンも重要な役割で再登場する可能性が高い。再登場を待ちたい。
 
■2021-02-05
日本の首都は千葉滋賀佐賀
 このときの個人的メモを更新しよう。

  • アメリカの首都はニューヨークではない。
  • オーストラリアの首都はシドニーでもメルボルンでもない。
  • ブラジルの首都はリオデジャネイロでもサンパウロでもない。
  • スイスの首都はジュネーブでもチューリヒでもない。
  • モロッコの首都はカサブランカでもマラケシュでもない。
  • 南アフリカ共和国の首都はヨハネスブルグではない。
  • アラブ首長国連邦の首都はドバイではない。
  • トルコの首都はイスタンブールではない。
  • ミャンマーの首都はヤンゴンではない。
  • 日本の首都を東京と定める法令はない。

 最後のが特に怖いところで、法令で定められていない以上、明治時代に政治機構が移っただけで、まだ首都は京都である可能性がある。法令で定めておくのは大事だ。
 
 どれくらい大事かというと、コートジボワールの首都はヤムスクロと定められているんだけど、Wikipediaの記述を見ると、

国際会議場や、世界最大の大聖堂である平和の聖母聖堂など数施設を除いて首都らしいものはなく、首都機能は現在もアビジャンに残ったままである。 経済的にも特にめぼしい産業はなく、行政都市としての機能も持っていない。

ヤムスクロ - Wikipedia
 ……などと書かれておりやばい。そのうえ観光地が3つしか挙げられておらず、うち一つが「大統領邸の堀に住んでいるワニ」なのでさらにやばい(おびただしい数がいるらしい)。


 政治を行う人のトップがいる場所を首都だとするのならば、江戸時代の初めに大御所が政権を握っていた時期は我が静岡が日本の首都だったということになる。
 もし神奈川県が「かつて政権があった」という理由で再び「神奈川府」を名乗り出すようなことがあったら、我々静岡県民はわずか10年ほどの駿府政権を掲げて打って出る覚悟であります。
 
■2020-12-18
消えゆく歴史用語
 歴史の教科書が新しくなるたびに、「聖徳太子」という単語が消えるだの消えないだのというニュースが出る。

 おなじみの単語が教科書から消えてしまうのにはそれなりの理由があるが(慶安の御触書とか)、だいたい「その当時はそう呼ばれていなかった」というのが大きいようだ。「鎖国」が消えると言われたときもそうだった。これについては単語として残っているものの、教科書では「この体制をのちに鎖国と呼ぶようになった」などの言い訳めいた記述がされている。鎖国がないのに開国があるのは不自然だからだろう。

 聖徳太子も同様に、2021年度用の指導要領解説では「のちに『聖徳太子』と称されるようになったことにも触れるようにする」とわざわざ書かれている。
 意味がわからない。それなら他の人には注釈は要らないのか? 北条政子は鎌倉時代から北条政子と呼ばれていたってことか? あの人、周りの連中が「みなもとの~」とか「ふじわらの~」とか「氏」で呼ばれてんのに、いきなり「ほうじょう まさこ」とかいう現代人みたいな名前を名乗りだしたわけ? タイムトラベラーか?

 話が逸れた。聖徳太子については実在を疑う説もあるし、肝心の「のちの時代で聖徳太子と呼び始めた人物」も諸説あり、これと定まっていないようなので、まあ仕方ない部分はある。


 そして、聖徳太子の陰で消滅の危機に瀕していた用語がもう一つある。
 今年世界中のゲーマーにおなじみとなった誉れ高き「元寇」である。

 これも当時は「元寇」とは呼ばれていなかった、「蒙古襲来」が当時の言い方だった、という理屈らしい。じゃあきっと第一次世界大戦に出兵した兵隊さんたちは「第一次ってことは第二次もあるのかよ……」って思ってたんだな。ひどい話だ。

 で、「元寇」はいつの時代の誰が言い始めたんだよ、と軽くWikipediaしたところ、すぐ次のような記述が出てきた。

「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』が最初の用例である。以後、18世紀の長村鑒『蒙古寇紀』、小宮山昌秀『元寇始末』、19世紀の大橋訥庵『元寇紀略』など、「寇」を用いた史書が現れ、江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていった。

元寇 - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
>徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』

(印籠が出たときのBGM)

格「元寇と名付けたお方をどなたと心得る。おそれ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!!」

悪人一同「!!」
町娘「水戸の……!」
おとっつぁん「ご老公様……!?」

助「一同、ご老公の御前である! 頭が高い、控えおろう!!」

(一同平伏)


 俺は実物の「大日本史」を水戸の偕楽園へ見に行ったことがあるが、漢文がギッシリ書かれた本の束がずらっと積み重ねてあってたいそうビビった。
 佐々木助三郎・渥美格之進の名前のモデルは、この編纂に関わった水戸藩士といわれている。もしも助さん格さんがアレを校正したというのならば、諸国漫遊より凄いことだ。そんな歴史書に「元寇」と書かれているならもう元寇でいいんじゃないか!?


 念のため出典に当たろうと思う。「大日本史」は長大だが、検索により201巻の北条時宗の項目にあることがわかった。原文は国会図書館のサイトで見ることができる。とはいえ俺が偕楽園で見たような達筆な漢文では読みようがないので、明治に出版されたものとなる。それでも漢文には違いないが。
 該当の資料を開いてひたすら年号を追っていくこと数分、文永11年のところに「元寇西陲」という記述を発見した。
 念のため見つけた箇所を転載しておく。俺は水戸黄門で「梅里」と書かれたご老公からの手紙(偉い人にネマワシしておくときによく使われる)を、偉い人が軽く拝んでから開くシーンが好きなので、リンクをクリックする前に画面を拝むこと。[画像]
 
■2018-04-21
クラーク博士と小野妹子
 歴史に詳しくない人でも、クラーク博士の名前は知っているだろう。
 札幌農学校で教鞭をとり、ボーイズにアンビシャスするよう求めた人である。その功績は疑いようもない。
 しかし……明治時代に日本人を導いたお雇い外国人は他にも大勢いる。きっとクラーク博士と同等の貢献をした人もたくさんいたはずだ。でもほとんど教科書には載っていない。載っていても覚えていない。辛うじて覚えていてもフェノロサなのかフェロノサなのかわからない。

 クラーク博士のもつこの圧倒的知名度は、「去り際にカッコイイことを言った」という一点で生まれたものではないだろうか。当然それを記憶したボーイズたちが立派に出世したという要素も必要ではあるが、名台詞には一気にキャラを立たせる力があるものだ。


 さて、同じように学校で学んだ日本史の記憶が流れ去っていっても、教科書に乗っていた小野妹子の名前を忘れる者はいないだろう。
 これも不思議な話で、教科書に載っている事実だけ見ると小野妹子は「聖徳太子の書いたヤベェ手紙を持って中国の激ヤバ暗君に凸したブッこみ鉄砲玉」であり、それなら聖徳太子(厩戸皇子)のほうだけ教科書に載せとけばよくね? みたいな感覚でいる。いやまあ命がけの偉業であることは疑わないけど、中大兄とか中臣鎌足とかと同じレベルで扱っていいのかどうか、これがわからない。

 そんな小野妹子が他の歴史人物に対して頭一つ抜き出ているのが「名前が可愛い」という点であり、小学6年生に対する引っ掛かりのよさゆえに、今でも彼は教科書に載り続けているのではないだろうか。そんなわけあるか。やっぱほんとは美少女だったからに決まってる。美少女だったなら仕方ない。
 
■2017-11-13
大浮世絵物語
 ウキヨエで有名な東洲斎写楽の活動期間が、たったの10ヶ月しかないことを知って驚いた。なお静岡県民は「写楽」と聞くとウキヨエより先にスシ屋の「東海道写楽」が出てくるため、今「東洲斎写楽」と入力することに大変な違和感をもっている。

 開幕から話がずれたので戻す。
 概容はWikipediaにも記載されているが、写楽の作品はすべて1794年の5月から翌年2月にかけて、4期にわけて発表されたらしい。この短い期間に150作近い作品を一気に発表してそのまま消えてしまった謎の絵師が、海外でも有名になり、200年たっても教科書にその名を刻んでいるのだから驚嘆というほかない。

 ところでWikipediaの記述で特に興味を引いたのがこれ。

役者絵は基本的に画中に描かれた役者の定紋や役柄役処などからその役者がその役で出ていた芝居の上演時期が月単位で特定できることから、これにより作画時期を検証することが現在の写楽研究の主流をなしている。

東洲斎写楽 - Wikipedia
 ウキヨエは常に流行の先端、つまりそのとき上映していた芝居を題材にして描くもの。考えてみれば当然である。江戸時代には動画配信サービスもDVD-BOXもない。そのような環境であれば二次創作は自然と「今期の覇権芝居」に集中するであろう。
 写楽が同人作家だとしたら、猛スピードで春アニメの同人誌を描き上げて5月のイベントに持ち込み、その独特な画風で一躍神絵師となった後3回のイベントで夏アニメ、秋アニメ、冬アニメの同人誌をさばくと忽然と姿を消した、という感覚だろうか。

 こうなると、写楽がたった10ヶ月で筆を折った理由もなんとなく想像できる。職場バレであろう。売れっ子同人作家だったことが職場に見つかってしまったのだ。実際、正体は阿波藩の武士階級の人物であるという説が濃厚のようだ。役者と交流していることが職場バレしたら厳罰は免れないと思われる。武士のオタク生活は大変なのだ。
 
■2016-01-16
人類よ世紀を捨てよ
 もう我々は「世紀」という数え方を一切合切捨て去るべきではないだろうか。

 たとえば「1492年」をいう西暦年を与えられて、それが何世紀か直感的にわかる層がどれだけいるというのか。1400年代を15世紀と表記することになんの疑問もなかったのか。いいかげんゼロの存在を認めたらどうか。
 だいたい「世紀がいつから始まるか」すら直感的でないのが大問題だ。うっかり1999年のカレンダーに「END OF THE CENTURY」と書いてしまったロックバンドのことを誰が責められようか。結局みんな2000年をミレニアムだの何だのと理屈をつけて祝ったではないか。2000年が21世紀でないという失態をなぜ放置してきたのか。いったい今まで世紀の境目をいくつ超えてきたと思っているのだ!人類!

世紀の区切りがいつであるかについては、記録によると16世紀末から議論が繰り返されてきた。100年ごとに訪れる区切りが近づくたびに議論が繰り返されるのは、一度議論に参加した当事者は次に議論がなされる100年後にはほとんど生き残っていないからである。

世紀 - Wikipedia
 うるさいよ!なんだよ「生き残っていないから」って!歴史に学べよ!
 ホント歴史から学べることは「人は歴史から学ばない」という1点のみだな!!


 こんな数え方は「数え年」を葬り去ったときに一緒に合葬しておくべきだったのだ。B.C.側はともかくとして、A.C.側は全部「1400年代」とかにしてしまえば何もかもすっきりする。
 ただこの場合「1900年代」と言ったときにそれが「1900~1999」を指すのか「1900~1909」を指すのかがハッキリしないという大問題がある。ここを何とかする方法が見つからないかぎり世紀という数え方を滅ぼすことはできないだろう。

 だが「世紀」を滅ぼす機運は確実に高まっていると感じる。2001年から2015年までの間がまったく21世紀という感じがしないまま過ぎてしまったことで、「世紀」の格はかなり落ちているのではないだろうか。なんだよおそ松とかブラックジャックとか、前世紀の人間にどう釈明すればいいんだよ……。
 これを機に「世紀」という概念を、前世紀に夢想されていた21世紀のイメージとともに撃滅するしかない。早くしないと間に合わなくなる。会社に21世紀生まれの人類が入って来る前に早く――。
 
■2015-05-10
イタリア艦
 某軍艦がたくさん出てくるブラウザゲームに、イタリア艦が実装されたと風の噂に聞いた。
 それで初めてイタリア海軍の軍艦の名前を知ったわけだけど、「ローマ」はともかくとして「イタリア」ってのはどうなんだ。いくらなんでも自分の国の名前そのものを軍艦につけるもんなのか。沈んだときすげえ凹むのではないだろうか。

「でも日本の軍艦にもヤマトとかある」

「大和はただの近畿地方の旧国名だし……」

「イタリアもヴィットリオ・エマヌエーレ2世が統一するまであの半島の一部を指す地名でしかなかったのでは」

「ぐぬぬ」
 
■2015-04-27
消える免罪符
 歴史の教科書の宗教改革のところに「贖宥状」という見慣れない単語があって驚いた。
 しょくゆうじょう……?我々はこれを「免罪符」として習ったハズ……。

 どうやら「免罪符」という訳は正しくないらしい。罪は免じられるものではなく、罪の結果受ける罰を免じるものだということだ。カトリックでない自分にはいまいち違いがわからないが、とにかくそういう理由で世界史用語としての「免罪符」は消えつつある。

 しかしこうなると、すでに我が国で慣用句として使用されている「免罪符」はいったいどうなってしまうのか。エイプリルフールであることを免罪符に嘘八百を書き連ねた罪はどう贖えばいいのか。そもそもこの場合の「免罪符」の「罪」の概念もカトリック的にはまったく的外れなのではないか。それなのに「贖宥状」に置き換えていく流れなのか。


 人名や地名もできるだけ現地の言葉になるように変わってきている。いつかクリストファー・コロンブスはクリストバル・コロンになるのではないかとにらんでいるが、こうなった場合慣用句としての「コロンブスの卵」は「コロンの卵」になるのだろうか。ならないか。絶対立ちそうにないし。