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◆不定期日記ログ◆

■2024-04-08
開きかけの幕府
 真新しい教科書が配布される季節になり、皆様におかれましては、「鎌倉幕府の成立は今は『1192いいくに作ろう』ではない」という話を無数に聞き及んでいるものと拝察する。
 代わりに「1185いいはこ作ろう」になった、という追加情報をお持ちの方もおられよう。


 しかし、別に頼朝が「ここを幕府とする!!」と言った年が1192年でなく1185年だったことが判明した訳ではない。
 1185年というのは、頼朝が義経追討のため各地に守護・地頭を置くことを許されたタイミングであり、これをもって頼朝の支配体制ができたといえるのではないか……と考える人が多くなった、というだけの話である。
 実際、鎌倉幕府と呼ばれる支配体制はじわじわと作られてきたものであろう。どこから鎌倉幕府になったかを決めるのは難しい。この情報化社会において、もはやテストで年号を答えさせるような問題は出題されないので、ゴロ合わせまでして鎌倉幕府=1185年という暗記をする理由もない。
 
 要は「1192作ろう鎌倉幕府」を、鎌倉幕府の成立年ではなく、歴史的事実である頼朝が征夷大将軍に就任した年のことだと認識を改めれば良い。
 征夷大将軍になることは、幕府を開くための重要な要素といえる(平清盛や豊臣秀吉の政権は幕府として捉えられていない)ので、「1192作ろう鎌倉幕府」のままでぜんぜん良い。自信を持って生きていきましょう。


 ここからはめんどくさい余談になる。
 そもそも鎌倉時代における「幕府」とは、主に「霞ヶ関」「ホワイトハウス」みたいに「執政者がいる場所=執政者」を示す言葉にすぎず、これが一般に「武士の作った政治組織」を指すようになったのは江戸中期以降のことらしい。
 つまり頼朝も尊氏も家康も誰一人「幕府を開くぞッ!!」とは思っていないということで、我が国の歴史上、幕府を開いた人物というのは存在しないことになる。思った以上にめんどくさいことになったぞ。

 さらにめんどくさい情報を追加すると、おなじみの頼朝の肖像画が「実は本人ではないのでは」という説が濃厚となったことで、教科書から消えつつある。

源頼朝像の肖像というと、かつては京都府の神護寺にある国宝「伝源頼朝像」が教科書にも大きく取り扱われる定番でした。(中略) しかし、1995年に美術史家の米倉迪夫氏によって、この「伝源頼朝像」は足利尊氏の弟「足利直義」の肖像であるという説が提起されました。

帝国書院 よくある質問
 なので現環境において「頼朝が鎌倉に幕府を開いた年は今は1185年になった」と豆知識ボンバーを仕掛けられた場合は、「そもそも幕府とは……?」というソクラテス論法を置いてカウンターを取り、ダウン後に「ところでこの肖像画は……」と起き攻めに移行するのがおすすめだ。そんなことでマウントを取り合うんじゃあない。