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◆不定期日記ログ◆

■2006-11-04
「いじめはなかった」
 現職の中学校の先生から興味深い話を伺った。

 なぜ校長は記者会見で「いじめはなかった」と言うのか。
 誰がどう考えてもいじめがなかったわけがないのに。
 死者まで出ているのに。

 責任逃れ?それもあるかもしれない。
 だが、校長個人の思惑はどうあれ、
 学校としては"そう言わざるを得ない"のだ。

 「いじめはあった」と言えればどんなに楽か。
 いじめがあったかどうかの確認が取れていないはずがない。
 しかし「あった」と言ってしまえば、マスコミの次の質問は当然、

 「ではいじめていたのは誰か」

 という方向にうつる。
 死者まで出た以上、学校は人をいじめ殺した生徒なんてすぐに把握している。
 だが「こいつとこいつがやった」と言うわけにはいかない。
 もし言えば、過剰報道のマスコミは即座に興味本位の犯人探しを始める。
 ネットには即座に名前と顔写真が出る。

 人をいじめ殺すような連中、家族もろとも永遠に抹殺されてしまえばいい、という考えも理解できないことはない。
 しかしそれを行うのは断じてマスコミではない。
 犯人として報道に乗れば、弁解の余地なくゲロ以下の悪人だ。間違ったって謝罪はしちゃくれない。

 だから校長はとにかく「いじめはない」と発言して、マスコミの矛先を学校批判へと向けるしかないのだそうだ。
 過熱報道が冷めるのを待ち、学校と少年法とが加害者の対処を決める。
 少年法がヌルいのは確かだが、マスコミが人を裁くようなら世も末だ。裁判員制度の導入で、マスコミの影響力はさらに加速するだろうし。


 「いじめ問題では学校の対応ばかりクローズアップされるけど、死んだ奴の次に精神ダメージ負ってるのは加害者じゃね?なんでそっちはニュースにならんの?」って日々思っていたが、この視点からのお話で合点がいった。