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◆不定期日記ログ◆

■2006-09-30
「ぜんぜん」の用法
 「ぜんぜん面白かった」のように、「ぜんぜん」の後に肯定の形が来るのは間違った日本語である、という主張はだいぶ前からされている。僕も国語の時間に教え込まれた。
 今は「くだけた表現の一部」として扱われ、だいぶ寛容なようだが、やはりテストで書いたら得点はないだろう。

 ここで、夏目漱石など近代文学の例を挙げて、かつて「漸々」は「すっかり」とか「全面的に」というような意味で肯定の文脈でも使われていた、と主張することもできる。
 しかし、それは「否定形を伴って使うのは歴史的に見てもあたりまえ」という主張を退けるにすぎない。
 そもそも、今使われている「ぜんぜん面白かった」と、かつて使われていた「漸々」とは、意味がぜんぜん違うような感じがするのである。

 いまわざと「ぜんぜん違う」と言ったが、否定形を伴うのが原則であるのなら、「ぜんぜん同じでない」とすべきである。
 しかし「ぜんぜん違う」「ぜんぜんダメだ」という言い方は比較的問題にされていないように思う。
 形は否定形ではないが、文脈が否定であるからだ。

 ここで冒頭の「ぜんぜん面白かった」に考えが戻るわけだが、我々がこの言葉を使うのはどんな場面であろうか。

 「ゲド戦記どうだった?」
 「ぜんぜん面白かったよ」

 文面だけでみると、「ぜんぜん」に肯定の形がくるのは違和感があるのかもしれない。
 だが、実際のところだいたいにおいてこれは、

 「ゲド戦記どうだった?(アタシの言ったとおりスッゲ面白くなかったでしょー?)」
 「(貴殿はあたかも拙者が貴殿と似かよったセンスを所持していることを予期しているかのような態度をとっているが残念ながら)ぜんぜん(そのような事はないのである。)面白かったよ」

 という意味合いでなされている会話なのである。
 文の形としては肯定であるが、その意味は否定なのだ。

 つまり、「ぜんぜん」に伴っているのは形ではなく意味としての否定なのであり、自分は「否定形であるべき」という考えにも、「明治時代のような総合的な使い方に戻っているだけ」という考え方にも同調しないことにした。
 今後「ぜんぜん」の扱いは俗用から慣用へ移り、市民権を得ていくのではないか。
 もし未だにこの問題を取り上げている文章があったら、こういう観点からも見てみようと思う。

 いや、今回は(オチなんて用意されてなくて)ぜんぜん(ネタが入っていない)真面目な日記だよ。(だってオチを考えてたら一週間たっちゃいそうだったんだもん。)