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◆不定期日記ログ◆

■2006-10-02
個人主義の殻
 みんなちがって、みんないい。
 夭折の詩人、金子みすゞの残した名文である。
 僕の知る限り、国語教科書はどれもおおむねなんらかの形でこの作品に触れている。
 競争を煽るのを過剰に恐れるあまり、運動会の徒競走ですら順位をつけることをためらってしまうような時期に、この言葉はまさにうってつけの考え方だったのであろう。

 しかし「みんなちがって、みんないい」というのは要するに「僕らは世界で一つだけの花なんだからその花を咲かせるために一所懸命になろうぜ」という、人間の価値としての意味であって、各自の行動にまでこれを拡大解釈してしまうのはよろしくないように思う。

 例えば、他人に害を及ぼす可能性がある主義主張である。『ジョジョの奇妙な冒険』第2部でエリナばあちゃんは、黒人の少年スモーキーを豚呼ばわりしたマフィアに「個人の主義や主張は勝手!ゆるせないのは私どもの友人を公然と侮辱したこと!」と言い、ジョセフにきちっとやっつけさせる。みんなと違う主義主張を持つのは自由だが、ジョセフの友人を侮辱してしまうような主義主張は公然と振り回さないほうが賢明であろう。これはわかりやすい。

 しかし、誰にも迷惑をかけない個人的な好き嫌いの問題も「個人の勝手」で片付けてしまうのはもったいない場合があるのではないだろうか。
 もちろん「あの作品は嫌い」「僕は好き」という意見の食い違いを、論争によってどちらかに統一せよというのは不可能だ。だから僕らは「多彩な価値観を認める」ということでそれらの食い違いを受け流すし、それは社会生活において大変重要な行動だ。
 だが、例えば、ジョジョを「面白いから読んでみろよ」と他人に薦めたときに「えー、絵が嫌い」という反応が返ってきたとする。僕はいままで「合わない奴にはとことん合わない絵柄だから仕方ないな」と多彩な価値観を認め、この問題を流していただろう。だが、そこで価値観の違いをあっさりと認めずに、もうひと押し別方向から、たとえば「絵は濃くて合わないかもしれないけど、ジョジョには名セリフがいっぱいあるんだぜ」と言ったら「グッ」とくる人がいるかもしれない。

 実際僕も、リアルタイムで見かけたころは敬遠していたジョジョを、あちこちで見かけるジョジョネタの実物を見たいがために読み始めた。ひょっとしたら相手が興味を示してくれるかもしれないと思ったら…万が一でも!相手が読み始めるっつー可能性があるのなら!その「もう一押し」を言わねえわけにはいかねえだろう…!
 あっさりと「個人の勝手」として捨ててしまうのは、違った価値観をやり取りする機会を失うことであり、双方にとって勿体無いことであるように思うのだ。

 なのでジョジョを読みなさい。ゲームも映画も盛り上がってきているところだ。

 この一行を書きたいがためにこれだけの理屈を並べてみた。