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◆不定期日記ログ◆

■2006-07-31
温泉宿で聞いたお話
 「守る」の「ま」は、「目」のことらしい。
 すなわち「守る」の語源は、視線を送り続ける・みつめることなのだそうだ。

 いまは戦乱の時代ではないので、徐々に女社会となりつつあるが…。
 かつて男社会だったころ、女たちは、男にみつめられることで、他の男たちから守られていたのだ。

 では、男にみつめられる女になるには、どうしたらいいか?
 いわく、まずはチャラチャラした服装、言動を避けることだ、と。チャラチャラした女は確かに多くの視線を集めるかもしれない、が、継続的にみつめられるレベルには決してたどり着くことはない。

 この話を聞いて成程と思った。

 僕は以前から、女性に関する「美人」という指標に懐疑的だった。
 「美人」という概念は、その時代、その場所によって極端に異なる流動的なものだ。そして、その実態はおそらく「大衆の好みの平均値」だろうと思っている。

 人々は、自分の平均から離れている部分……両目が離れてるだとか、鼻が大きいだとかを「美人でない」としてコンプレックスにする。美容整形はつねに平均に近くなるように行われる。
なぜなら、それは、マスコミに取り上げられる「美人」が、みな平均に近い顔をしているからだ。これは彼女らが「多くの人の視線を集める」という任務を背負っている以上当たり前のことだろう。こうして、日本人の好みの平均値をとるような顔であることが「美人」である、という思い込みが生じる。

 しかし、多くの視線を集めることは、継続的に見つめてくれる「運命の人」が現れる確率とは無関係である。出会いが多くなるかも、ということを考慮すると関係あるのかもしれないが、社交的であるかどうかという捉え方をすればやはり直接は関係あるまい。
 平均値から外れているからといって、「運命の人」の出現率にたいした影響が出るわけがないのだ。平均とはシーソーの真ん中。そこには誰も乗っていない。と紅子さんも言っていた。

 だから、僕は「芸能人に例えると○○に似てる」という評し方が嫌いなのだ。



 なおこの話はこのあと、みつめる意志という意味での「念」の話になり、負の「念」の力の話になり、丑の刻参りの藁人形を目撃する話になり、神主として丑の刻参りと対決する話になり、丑の刻参りの傾向などの話が非常に恐ろしく興味深かったのだが、いたずらにネタにできないので全部割愛。