Oneside Flat Web

◆不定期日記ログ◆

CATEGORY 考察

■2011-06-16
キレイ×キレイ
 最近「キレキレ」という言葉を、ブログやテレビで目にするようになった。
 おおむね「絶好調」と同義のようだ。

 ここ数年「キレる奴」と言えば近づきたくない奴ナンバーワンだった。
 そんな「キレる」がまた褒め言葉として復権しつつあるというのか。
 こういうのは珍しい例じゃあないかと思う。

 「凄惨な」の「凄」は、だんだん「スゴイ」という褒め言葉に変化した。
 「ヤバイ」も同じ道をたどりつつあるが、まだとらえ方に差がある。
 「こだわり」はもう「拘る」という字面からしてマイナスだ。
 「~すぎる」も本来は「過ぎたるは及ばざるがごとし」みたいなニュアンスだったハズだ。でも海賊戦隊ゴーカイジャーの悪役「ワルズギル様」はなんか「悪すぎて逆に可愛い」みたいなレベルになっているので、本来の用途を思い起こさせてくれる。

 言葉の価値が逆転してしまう現象は多々あるが、この短期間で再逆転できるだろうか。
 「キレキレ」はその用途を見る限り、発祥はスポーツニュースか何かだろう。
 キレる奴の復権のため、是非頑張って欲しい。
 
■2011-04-22
読書感想文:リスク管理
 詳しくは「移植くじ」で検索していただきたいんだけど、「健康な人の中からくじで1人を選び、その人の臓器を使って5人の患者の命を救う制度」ができるとしたらどう思うか、っていう思考実験がある。当然、思考実験の話なので、移植は確実に成功するし、しなければ死ぬ、というのが前提だ。

 それとは別に、前に流行ったサンデル先生の講義に、「トロッコ問題」というのがある。
 制御不能になったトロッコが5人の作業員がいる方に向かっている。分岐器のそばにいるA氏がスイッチを押せば、トロッコは別路線に入るので5人は助かるが、代わりに別路線にいる1人の作業員が死ぬことになる。A氏はスイッチを押すべきか?……という問いかけ。

 全員助かる方法を考えよ、っていうトンチの問題じゃあない。どちらも「放っておけば5人死ぬ、1人死ねば5人助かる」という状況が確定された上での話だ。でも、トロッコ問題では多くの人が「1人が死ぬ」という選択肢を選んだのに対し、移植くじではほとんどの人が「1人が死ぬ」選択肢に不快感を示す。

 この違いは明白。
 トロッコ問題は「自分」にまったく関係のない問いかたをしているけれど、移植くじはごくごくわずかな確率で「自分」に影響を及ぼす。
 見ず知らずの人の命なら、5個と1個に大小関係をつけることができるし、非常時にはそれが判断材料となる。でも、自分の命を想定すると、とたんにそういう論理が通用しなくなる、という事だ。
 アッタリマエの話だ。自分の命はどんな物とも釣り合わない。確率がどんなに小さくても、失う物が自分の命だったら、期待値はマイナス無限大のままだ。自分の犠牲がどんなに意義のあるものだったとしても、「この宇宙のために死んでくれる気になったら、いつでも声をかけて。待ってるからね」なんて言われて了承なんてするわけない。


 最近読んだ『メディア・バイアス』という本にに面白い話が載っていた。プロレス技でないほうのDDTをご存じだろうか。俺は高校の英語の時間にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を英語で読まされたから覚えている。
 DDTという殺虫剤は安価なため大量に作られていたが、『沈黙の春』によってその危険性が告発され、禁止に至った。……が、その結果、DDTをマラリア蚊の駆除に使っていた国々では、マラリアの犠牲者が年間250万人クラスにまで達したという。これを「レイチェル・カーソンの虐殺」というメディアもある。
 現在は、主に発展途上国で、厳重な管理のうえでDDTが使われているらしい。自然界に影響を与えないであろう範囲で、マラリアを防ぐのに十分な量を使おう、という判断に至ったわけだ。

 もちろん、DDTによって家畜や魚に影響が出るリスクは完全にゼロではない。その危険性がピックアップされたら、我々は「輸入禁止措置を」とか「家畜の全頭検査を」とか、メリットに釣り合わないことを言うだろう。だが、温暖化でマラリア蚊が日本に大量発生したら、同じように防疫するに違いない。

 自分に関係あるかないか、という点でメリットとデメリットを比べると、当然自分に関係のあるほうに軍配が上がるのは当然だ。デメリットによる不安は、つねに利己的に出現する。遠くの国の250万の命と、自分の命は比較することができない。これは冒頭の「自分の命は統計で扱えない」という性質による。


 原理的に「不安になること」は避けられないし、責められるべきことではないと思う。あらゆるものには必ず副作用があり、微少だから悪影響が現れないか、それをはるかに上回る恩恵があるから使用量を管理して使っているかのどちらかだ。
 ならせめて、危険そのものではなく、その管理方法に不安を向けることにしよう。猛獣を恐れるあまり、その檻のほころびを見落とすようなことがあってはいけない。
 
■2011-02-28
いちご100%中の100%
 いちごは果実なのか、野菜なのか?
 農林水産省の統計を見てみると、いちごはメロン・すいかとあわせて「果実的野菜」として野菜に分類されている。
 一方、中央卸売市場の分類の分類を見ると「果実」の中に入っている。
 このことから、公的・学術的にはいちごは果実ではないが、我々消費者はみんな果実として扱っているということがわかる。

 樹木に実るものが果実で、草本に実るものが野菜、という分け方は一見わかりやすいが、そもそも樹木と草本の定義が難しい。
 年輪の有無、1年で枯れるかどうかなど、様々な分け方があるが、どれも我々の印象からズレたものが出てくる。
 たとえばバナナは多くの場合樹木ではない(=果実ではない)。
 もちろん、この定義でいちごが果実になるはずがない。 

 生物学的に考えれば、被子植物の子房がふくらんだものを果実という。
 しかしいちごは、この定義でも果実ではない。
 いちごの果実はあの表面のつぶつぶである。
 この場合、りんごなども果実部分を食べていないので果実でなくなる。

 さらには法律上の果実という定義もある。
 こちらは、たけのこやたまご、果ては仔牛や家賃まで含むスゴい言葉である。
 これならいちごは果実になるが、他のものを巻き込みすぎだ。



 これは大変困った事態だといえる。
 別に定義上、野菜だろうが果実だろうが実生活には関係ないが、「定義があいまいだ」というところが大問題なのである。

 我々がいちごを可愛らしいものとして認識しているのは、あれがフルーツの一種であるという大前提があるからだ。
 もし「サナギ」とか「腫瘍」の一種だったら、我々はいちごをいままでどおり愛することができるだろうか?
 何を突飛なことを、と思うかもしれない。
 しかし、いちごの「花托がふくらんで複数の小さな果実を支えている」という構造は、もっともポピュラーなグロ画像であるハスと同じだ。
  
 定義上「果実」ではなく……。
 誰も「野菜」とは認識していないなら!
 いちごは「グロ画像」にカテゴライズされてしまう可能性がある。
 誰か俺に「いちごはフルーツだよ」と言い続けてくれ!!
 
■2011-02-15
RPGを途中で投げ出す症候群
 「RPGを途中で投げ出す症候群」の人の気持ちがわかった気がする。
 つまり、具体的に言うと、FF10をほぼ投げ出した。


 FF10は終盤までほぼ一本道で進む。
 そして、ラストダンジョンの出現とともに、飛空挺で世界中に自由に移動できるようになる。
 この「イベントはあとラストダンジョンだけだが世界中にサブイベントがある」という状態に、なぜかうんざりして意欲が下がったのだ。

 よく考えるとおかしい。
 FF5だって、次元の狭間が出現してから、封印武器を探すサブイベントがある。
 FF6だって、仲間を捜すのはいちおうサブイベントだ。
 ダリルの飛空挺を手に入れたときはテンションが上がったのに、FF10ではテンションが下がってしまうのは矛盾している。


 いったいこの差はなんなのか。
 これはシナリオの没頭度に起因するのではないか、と自己評価してみた。

 FF10では基本的に、マップに表示される矢印を追っていけば次のイベントが起きるので、迷うことはまず無い。
 おそらく、プレイヤーの意識をストーリー展開から離さないための工夫であろう(だとするとバトルが一番邪魔だが)。
 実際、徐々に世界の謎が明かされていくのは面白かった。
 要はシナリオのおもしろさを燃料にして進んでいたわけだ。

 それが、いよいよ最後のイベントとなったところで、いったん戻ってサブイベントを消化してレベルを上げてくれ、と言われたら、そりゃあモチベーションも下がる。
 これはふしぎズボン(ティーダ)の物語だ。俺の物語じゃあない。なんでふしぎズボン(ティーダ)の努力パートを俺が担わねばならんのか。さらにいえば、続編の存在によって俺はふしぎズボン(ティーダ)の物語がどう終わるのか、大まかに知ってしまっている。そしてそれは動かしようのない結末だ。ストーリーのおもしろさを燃料にして進むRPGは、ストーリーの終わりが見えたら燃料がなくなる、というのが要因の一つと考えていいだろう。
 すまん、ふしぎズボン(ティーダ)……。
 いつか思い出したらクリアしてやるからな。
 
■2011-01-12
ユニバーサルパーキング
 「前向駐車」と書かれた看板のある駐車場に入った。
 駐車場にある車の向きは、バラバラだった。

 いつも困るのだが、この看板、何に対して前向きに駐車するのかが指示されていない。
 「近隣家庭のため~」「植栽保護のため~」などの前置きがあれば、「ああ、あちらに排気ガスを向けてはいかんのだな」と納得して、頭からつっこむ。
 そうでない場合は「バックして駐車場に入れるのが上手くなりたいという気持ち」に対して前向きな駐車をすることにしている。
 頭から駐車場に入るのは楽ちんだが、バックして駐車場から出るのは面倒なうえ危ないからだ。


 しかしこの看板、わかりにくいとの声も多かろうに、よく見かける。
 そしてたいてい守られていない。
 見やすく漢字4文字にまとめたつもりなんだろうけど、エレベータの「開/閉」ですら記号化されて意味不明になるこの大国際時代に何を考えているのか。

 記号を併用すべきだ。
 外国人にもわかる「こちらを向いて駐車せよ」という看板をつくらなければいけない。 
 そしてそれは日本人にとっても明確なものでなければならない。

 そんなユニバーサルな「前向駐車」の看板を考えてみた。
コッチヲ見ロォ
後ろ向き厳禁
 これなら入れる方向を間違う奴はいるまいよ。
 
■2010-12-24
鬼スマイル
 「来年のことを言うと鬼が笑う」という言葉が不思議だ。
 笑われる相手として、なぜ恐ろしいオーガを設定したのか?
 笑いそうにない怖いやつが笑った!という趣旨ではなかろう。
 鬼を出すなら「来年のことを言うと鬼が猛る」くらいでないとそぐわない。

 しかし「猛る」では、元の「嘲笑される悔しさ」が足りない。
 「来年のことを言うと鬼が理不尽にキレる」にすれば、
 もっと凶暴性も出るし、よいと思う。

 いっそ「来年のことを言うと鬼がライコネン(F1レーサー)の話をしてくる」とかだとウザさ100倍で効果的だ。
 意外とモータースポーツに詳しいのだ、鬼は。


 ここまできて「鬼のほうを変えればいいのでは」と思い当たったが、
 「来年のことを言うと日本人形が笑う」とか超こわいのでやめた。
 
■2010-12-23
間違い間違えて生きるのさ
 ととのう → ととのえる

 文法的には「自動詞→他動詞」の変換だが、細かいことはいい。
 他にもこういう変換ができる言葉はたくさんある。

 かなう → かなえる

 したがう → したがえる

 まちがう → まちがえる

 ……なんか「まちがえる」だけおかしくないか?
 「整う」のと「整える」のとでは、主語が違う。
 「叶う」と「叶える」なども、同じ理由で、使える文脈が違う。
 だが「間違う」だけは「間違える」と入れ替えることができる。


 一部の動詞は、そのまま名詞化することができる。
 「考える」とは、「考え」を出している状態だ。
 「構える」とは、「構え」の姿勢をとっている状態だ。

 ならば「間違える」とは、「間違え」を犯した状態であるべきなのに、
 実際は「間違え」ではなく「間違い」が使われる。
 これだと元の動詞が「待ちガイル」になってしまいかねない。


 なぜ「間違う」「間違える」だけ、こんな不思議な扱いなのか。
 俺たちはひょっとして、間違えるという言葉の使い方を、どっかで間違えて生きてきたんじゃないだろうか? 
 「間違った日本語」という場合は「間違えた日本語」とは言わないので、このあたりに本来の使い分けの名残があるような気がする。

 個人的には「さまよう人」と「さまよえる人」の関係であってほしい。
 全ての間違える人々よ……われ言葉を間違えり。
 その間違えし言葉を改めるのだ。
 
■2010-11-13
チメイドのカタヨリ
 ガリバーさんが心配だ。

 「名前は誰もが知ってるけど、詳しくは誰も知らない」
 という可哀想なキャラクターを探して保護する活動を行っているが、ガリバーさんは脳内レッドリストのかなり危険な位置まできている。

 このレッドリストは「名前/容姿」に対して「実態」の認知度の差が激しい、もしくは誤解が大きいキャラクターを収集・保護する目的で俺の脳内に生まれたものである。

 たとえば金太郎さん。
 あの圧倒的アウトな服装のインパクトに加え、宇治金時とかサラリーマンとか、ネーミングの元ネタにも広く使われる文句なしの知名度。
 だがその実態は、「まさかり担いだ金太郎」のあとの歌詞が続かず、かろうじて熊と相撲をとったことくらいしか思い起こされない。
 童話も「俺たちの冒険はこれからだ!~数年後、彼は立派な戦士になったという~」みたいな終わり方をしていたと記憶している。

 たとえばターザンさん。
 ターザンさんと聞けば、誰もが「アーアアー」と奇声を発してツタにぶら下がる野生児の姿を思い浮かべるのに、ターザンさんが何をしたのかを知っている人はごく少ない。
 英国貴族としてのターザンさんを知る人はもうほとんどいないのではないか。

 たとえばドンキホーテさん。
 この人については「痩せ馬に乗って風車に突撃するオッサン」程度の認識すら危うい。
 雑貨屋の歌のせいで「ドンキ・ホーテ」だと思われてるフシすらある。
 この人についてはアマゾン同様、名を借りた現代企業によってそのイメージを上書きされていくであろう。


 そんなレッドリストに片足つっこんでるのがガリバーさんだ。
 さすがに『ガリバー旅行記』の知名度は今でも高いはず。
 しかしガリバーさんと聞いて誰もが思い浮かべるのは、決まって小人たちに拘束された姿なのだ。
 このイメージのせいで、だんだん「ガリバー=巨人」になってきてないか!?

 ……いや、さすがに心配しすぎかもしれない。
 だが、ガリバーさんが小人の国で冒険をやめたら、ラピュタもヤフーも生まれなかったのだ。
 後半の存在感を考えると、この仕打ちは不憫すぎる。
 そういう意味で、ガリバーさんの印象に警鐘を鳴らすべく、俺の脳内レッドリストに記載していきたい所存である。
 
■2010-10-14
ゼノギアスに関する長文
 アーカイブスで買ってきたゼノギアスをクリア。
 「裏FF7」とも呼ばれ、いまだに根強いファンをもつゲームである。
 なおモッコス様はゼノサーガなので全然別物。


 シナリオは緻密で複雑。
 発売が1998年2月なので、エヴァの影響を直撃で喰らっており、ロボットアニメの文法に思想哲学を織り込んだ切り口で、牧歌的な村から人類全体を巻き込む戦いまでを描く。
 とにかく設定が緻密なので、全編通して説明的セリフが多く、うかうかしてると最初のほうの伏線を忘れてしまうほどだ。
 正直、RPGにこれだけの設定をのっけられたのは驚嘆のほかない。

 JRPGの主成分であるキャラクターも、ベタすぎないバランスで揃っている。
 それぞれのキャラの設定・描写もこだわりが感じられ、少なくとも矢吹健太郎先生に「ナノマシンとは幼女を変形させるもの」という知識を植え付ける程度にはセンセーショナルだったと言えるだろう。
 それぞれの仲間との出会いから、パーティに正式加入するまでの話は、ワンピースさながらのていねいさでメインシナリオを脱線して描かれる。


 ただ、そんなシナリオとキャラが、システムとかみ合ってるかというと疑問が多い。
 主人公たちが乗るマシン(ギア)は、派手な空中戦を繰り広げるシーンがあるくせに、普段は貧弱なジャンプしかできず、アクションの苦手なプレイヤーを困らせる。
 飛べるんだろ!?飛べよ!
 また、おそらくジャイアントロボが大好きな人が設定したと思われるキャラがおり、彼女だけコクピットでなくギアの頭に乗って出撃するのだが、それがシナリオに関係するでもなく、何かパラメータに影響するわけでもなく、むしろそのまま平然と水中戦や高度空中戦をやってしまう現象が起きている。完全にムダ設定といえるだろう。


 そう、ここまでひいき目に書いてきたけれど、
 ゼノギアスはシナリオに対してシステム面がまったくお粗末なのだ。

 ここからの長文は、主にゼノギアスをDisる流れになる。
 だが、このゲームの問題点は、そのまま今のJRPGにも引きずられているかもしれない。「RPGとは何か」に関わる問いなので、丁寧に、誠実にDisっていきたい。


■パラメータの価値とそのバランス
 最初に一番致命的に残念だった点を述べる。

 ゼノギアスの戦闘は「すばやさ」に応じた疑似アクティブタイムバトル制をとっている。(コマンド入力待ちのとき停止するのでリアルタイムではない)
 その「すばやさ」はキャラごとに固定されていて、基本的には変化しない。
 フェイが11、シタンが13、リコやマリアは7固定。
 たった6の差だけど、リコさんが1回動く間に、シタン先生はなんと3回動く。

 そうなると当然シタン先生の能力はリコさんの1/3であるべきだが、攻撃力はリコさん44に対してシタン先生41。
 「たかだかすばやさ6点」とでも思ったのか!?
 したがってすばやさが10以下のキャラはほぼ存在価値が無い。このカースト制度により、リコさんなどは公式いらない子認定されている。無責任な!

 肉弾戦メンバーはシタン13・エメラダ12・フェイ11でほぼ確定。
 ボス戦では命中支援のためにバルトを採用する手があったり、ギア戦になると主砲として魔改造したビリーさんを投入したりするが、8人もメンバーがいるのに、この選択肢の狭さは勿体ないことである。

 なお「魔改造したビリーさん」とは、他のパラメータを全部捨てて、魔力増幅アクセサリだけを装備し、魔力増幅装置だけを装備したギアに乗ることで、あっさり9999ダメージを連発できるようになったビリーさんのこと。
 こういう工夫の余地があるのは面白いが、やはり極端なバランスという印象は拭えない。


■ゼノギアスの戦闘
 戦闘をいかに楽しくするか、というのはRPGの要の1つだと思うが、ゼノギアスは、「攻撃」コマンドが弱・中・強のコンボになるのが特徴だ。基本的には強攻撃だけぶっぱなすのが一番効率がいいのだが、弱・中・強の組み合わせで覚える必殺技が、最終的に火力の要になる。

 したがって、ザコ戦では「弱中強」「弱弱弱強」などで技を覚えるポイントを稼ぎ、ボス戦ではその時点で使える一番強い技を連発して(消費は無い)戦う。

 問題はそのボス戦のありかたなのだ。
 だいたいいつも「HPが減ったら回復魔法、そうでないときは攻撃」の繰り返し。
 1人のときは仕方あるまい。だが3人になっても変わらないので困る。
 その上、MP回復の手段が潤沢なので、とにかく負ける要素が無い。
 しかもどうやら「強敵=HPが高い」と誤解しているらしく、長期戦をすることが強さの指標だと言わんばかりに、無駄にしぶとい奴が多い。素人がRPGツクールで陥りがちな罠にきっちりハマっているではないか!

 終盤になるとようやく技巧派の敵が現れ始める。「○ターン以内に倒すとレアアイテムを落とすボス」などは頭を使った。
 ……最終的に魔改造ビリーさんで撃ち殺すことで解決したが。


■こんな装備で大丈夫か?
 わりとどのRPGでもつまらないなと思うのが、新しい街に到達して新しいラインナップの装備が売られていたときに、
 「一番いいのを頼む」
 以外の選択肢がなく、しかもだいたいそれが所持金の範囲に収まってしまうことだ。

 ゼノギアスの場合、やはりキャラの装備もギアのチューンも、
 「一番いいのを頼む」
 で済んでしまうため、お金を貯めるとか使うとか、そういう感覚が無い。
 終盤になると、魔改造ビリーさんのような工夫の余地が出てくるが、それ以外は、どうしても装備の刷新は単純作業になりがちだ。

 一番いいのを買うと明らかに軍資金不足になるよう設定してあって、戦闘のバランス自体は二番目の装備を基準に取られてるようにすれば、詰まった人が装備を買って強引に突破する、という選択ができるな……と考えた。

 JRPGって「レベル上げさえすれば誰でもクリアできるもの」と認識されてるけど、そこに「お金稼ぎをすれば」という要素を加えてもいいんじゃないかな。……まあどっちみち、それだけじゃPAR全盛になるだけだと思うけど。


■RPGとダンジョン
 「ゲーム」の定義から外れつつあるJRPGの中で、まだゲームらしい要素の1つに、「ダンジョンを進み、消耗していく中で、どのタイミングで補給に戻るか」という判断をせまられる、というものがあると思う。

 いまや安価なテントがあり、大抵のダンジョンにはセーブポイントがあり、ボスの前にもご丁寧に回復ゾーンがあるので、この要素は失われてしまった。
 ダンジョンが探索するものではなく、通過する一本道になってしまったのだから仕方ない。
 むろんゼノギアスもこのタイプのダンジョンがほとんどだ。

 だが「キスレブ下水道」だけは違った。
 MOTHER2のモグラ穴のように、広いダンジョンのあちこちでフラグをたてつつ、「いつ戻り、いつボスに挑むか」を常に判断する必要のあるダンジョンだった。
 この一番ゲームらしいダンジョンが、「リコさんの顔見せ」というシナリオ上ぜんぜん重要でないイベントであったのは皮肉なことである。


■固有名詞のバラバラ
 ゼノギアスには序盤から終盤まで次々と専門用語が出現する。
 ソラリスのアバルたちがゲブラーを使ってラムズを支配し、産まれたウェルスは『教会』のエトーンが処理してたりして、パルスのファルシのルシは危うくコクーンからパージされるところだったが、その辺はとにかくひたすら説明をしてくれるので何とかなった。

 どうでもいいけどストーン司教に憧れてエトーンになるのはおかしいだろ。
 そこはストーンになれよビリー!

 ……専門用語が多いのは別にいい。
 いわば固有名詞は全て専門用語であり、それは世界観の一部だ。

 気になって仕方ないのはその統一性である。
 主人公フェイ(中国語系)の乗るマシンがヴェルトール(ドイツ語系)なのは、話の流れを考えればまあいい。
 だがユーゲント(ドイツ語)出身のエレハイム(ドイツ語)さんの専用機がなぜヴィエルジェ(フランス語)なのかは説明が無い。
 シタン(日本)先生がヘイムダル(北欧)に乗ったのは偶然だがなぜか専用ギアもフェンリル(北欧)だった。
 その他、リカルド(スペイン)が乗るのはシューティア(ドイツ)、ビリー(英語)が乗るのはレンマーツォ(イタリアと見せかけて中国)……と来ると、もはや意図的にバラしてるとしか思えない。

 多国籍感・無国籍感を出す狙いなのかもしれない。
 それでもせめて、バルトのまわり(北欧しばり)みたいに、一人ひとりのまわりは統一感を持って固めてほしかった。


■DISC2という発明
 ヒントを得てない状態でパスワード解除装置を触ると、フェイが「なんだこりゃ?全然わかんないぜ」みたいなセリフを言うシーンがある。

 全然わかんないのはプレイヤーであり、わかんないから先に進めないのである。
 フェイに言われなくてもそんなことはわかってるのである。

 つまり、このイベントは、「俺がフェイを操作して、謎を解く」のではなく、「謎を解くフェイを、俺が操作する」イベントなのだ。
 JRPG全般に漂う傍観主義をよく表したセリフだと思った。

 ところがDISC2に入り、このゲームは驚くべき展開に入る。
 キャラクターのモノローグでシナリオを進める、という、有名な「サウンドノベル化」である。

「○○しようとした俺たちの前に××が立ちはだかった…」
 ↓
ボス戦
 ↓
「××は倒れた。
 俺たちは△△を守るため、□□へ向かった…」
 ↓
買い物+ダンジョン
 ↓
ボス戦
 ↓
「△△を手に入れた俺たちを待っていたのは☆☆だった…」
 ↓
合体変形ムービー
 ↓
ボス戦

 Wow!!テンポ速い!
 ワールドマップなんて要らんかったんや!

 制作日程の都合とも容量の関係ともいわれたこのサウンドノベル化だが、俺はむしろ、すごく納得のいく流れだった。
 実にゼノギアスになじむシステムだと感じた。

 俺は、RPGのシナリオは
(1)「敵の家のボスを倒してくれ!」
(2) ボス撃破
(3)「ありがとう、北に次の村があるぞ」
 のエンドレスワルツだと認識している。

 たとえばMOTHER2の場合は「街の不良を倒してくれ」→「ありがとう、交通封鎖は解いておこう」→「さらわれた女の子を助けてくれ」→「ありがとう、ライブハウスのバンドに会いたまえ」という風に事が進む。

 ところがゼノギアスは違う。
 村→森→砂漠の街まではいいとして、「先生を追って砂漠へ」→「謎の男に遭遇(ボス戦)」→「さわぎを聞きつけた兵士に捕まる」→「連行中にさらに賊に襲われる(ボス戦)」→「落とし穴に落ちて鍾乳洞へ」とのっけから強制移動・一方通行の連続である。
 自分の意志で戻る事はできないし、戻れてもたいして意味はない。

 つまり、いきなり敵の家に放り込まれるのだ。
 それが済むとまた次の敵の家に放り込まれるのだ。

 DISC1の段階から、ゼノギアスはすでにサウンドノベルだった。
 「俺がフェイを操作して、謎を解く」のではなく、「謎を解くフェイを、俺が操作する」ゲームなら、そのほうが都合が良い。
 パーティ編成の自由度も低く、装備更新も作業的であるなら、これで足りる。
 どうせ一本道のダンジョンなら、別に操作しなくていいじゃあないか。
 サウンドノベル化はごく自然なことで、もっとはやくこれを実施していれば序盤のペースも加速できただろうに、と思った。

 あとは序盤の伏線の量がすごいので、しおりと巻き戻しが搭載されるとありがたい。
 これで新ジャンル「ノベライズRPG」の完成である。

 なお、シナリオがサウンドノベル状態になっても、巨大ロボ登場イベントや敵のロボ合体シーンはムービー付きで表現するあたり、スタッフが「何をつくりたかったのか」が凄い伝わってきて胸熱になる。
 惜しむらくは、スタッフたちがRPGをつくるノウハウしか持たなかったことだ。


■3行でまとめろよ
 ゼノギアスは「ロボットもの」の名作だが、ゲームとしては完成しなかった。
 当時は「RPGで何でも表現できるようになった」と錯覚していたが、
 しょせんRPGではゲーム以外のモノは作れないのだ。
 
■2010-09-18
あかさかさかす
 ちょっと赤坂まで出かけてきた。
 実は赤坂という街は初めてだ。
 思っていたほど赤くなかったし、坂もきつくなかった。


 赤坂には、水戸黄門でおなじみのTBSがある。
 直営のグッズを売るお店があったので、ちょっと見に行ってみたところ、入口付近が『けいおん!!』のグッズで埋めつくされていたので驚いた。

 たしかにけいおんはオリコンランキングを揺るがすくらいの人気作だ。
 ハルヒだってお菓子のCMに出るご時世だし、もうたいして珍しくないのかもしれない。
 だが深夜アニメだぞ!?
 俺も含め、ここに来てる客の何人がこの作品を観てるというんだ!?
 この光景はやはり信じがたい。心のどこかで。


 ふと、最近の若いオタクは何をしてるんだろう、と思った。
 とくに、高校生くらいの若い衆だ。
 (オタクという括りもずいぶん曖昧になってしまったから、「なんらかのサブカルチャーにどっぷりな人」程度の定義をしておこう)

 今や漫画を集めてるくらいじゃ漫画オタとは言わないだろう。
 けいおんを毎週観てたくらいでアニオタと呼べるのか?
 GREEやモバゲーを極めても、それはゲーオタと言っていいのか?
 オタクという括りもずいぶん曖昧になってしまったけど、世の中の変化に従って、さらにその意味が変化しているような気がする。

 ここまで深夜アニメが一般に認知される時代は、オタクにとって生きやすい時代になったのか、その逆なのか。
 おおよそ赤坂に似つかわしくないことを考えながら帰った。
 
■2010-08-31
夏休みという共通体験
 昨日あんな日記を投げといて何だけど、
 小学生にとって、もはや「8月31日」は夏休み最終日なんかではない。
 けっこーな割合で、既に夏休みは終了している。

 我が県内では、遅いところは7月31日まで授業があり、早いところは8月25日から授業がスタートしている。
 未だにマスコミでは「夏休み最後の日曜」とか「夏休み最終日」とか言うが、もうじきそれは聞かれなくなるだろう。

 ついでにいうと、二学期制に移行する学校も珍しくなくなってきた。
 そういう学校は、9月の連休までが1学期である。
 つまり、7月下旬に終業式をして通知表をもらって夏休み、というのは、もうぜんぜん共通体験でなくなってしまっているのだ。

 この調子で多様化が進めば、学園モノやドラえもんやサザエさんは大変になるだろう。
 すこし寂しくもある。
 
■2010-08-30
作業机の法則
 書類を広げるには机が狭いので、もっと大きな机に移動した。
 しかし、結局そこにもいっぱいまで書類を広げてしまう。

 これを「作業机の法則」という。


 31日までにやる、という宿題が31日より前に終わらないのも、
 月3000円のお小遣いを貯金できないのも、
 本が溢れたので新しい本棚を買ったのにすぐまた溢れてしまうのも、
 パソコンの性能が100倍になってもOSの起動がトロいままなのも、
 すべてこの「作業机の法則」のせいである。

 リソースを利用するのではなく、リソースに管理されている状態。
 基本的に我々人類はメモリの管理がヘタクソなのかもしれない。


 ……あたかもそんな言葉があるように書いてみたけれど、「作業机の法則」は今日思いついた言葉だ。
 きっと、誰かがこの現象にもっと気の利いたネーミングをしてるハズなんだが、こういう検索はGoogle先生はニガテなようで、わからない。
 もし俺が最初ならこれで「さよなら絶望先生」が一話できるな。
 
■2010-08-28
夏休み読書感想文
 ジャレド・ダイアモンド博士の『文明崩壊』を読了。
 現在・過去の文明の崩壊っぷりから環境問題を語る本。
 さすがに前著『銃・病原菌・鉄』には新鮮さでやや及ばないが、知的好奇心を充填してくれる大作であった。
 ハードカバー上下巻あわせて900ページ弱だが、環境問題について多面的に知りたい人は挑戦するといいよ。


 さて『銃・病原菌・鉄』と同様、この本でも、同じテーマをいくつもの違う土地でなぞる方法で論が進んでいく。
 今回、何度も出てくるのは「人間がやってきて、森を切り開き、その悪影響によって自滅した」というシナリオだ。

 我々は畑も森も同じ「緑」として認識しがちだけれど、畑というのは確実に土地を疲弊させている。
 結局のところ、農業も、土中の栄養を集めているという考え方をすれば、狩猟採集と変わらない。石油や鉱物や海洋資源と同じく、乱獲すれば枯渇する。
 また、耕した畑は風雨による侵食を受けやすい。放置されればあっというまに土壌が流出する。
 AOCプレイヤーはよくご存知だと思うが、畑を張るのには木が必要だ。
 森が食料生産を支えている。

 食料自給率を上げろ、というキャンペーンがずいぶん前から張られているが、「金を払って食料を輸入する」ということは「食料生産に関する環境負荷を、相手国に負担してもらう」という側面が意識されていない。
 もし食料自給率を高めて、日本の農業規模を倍にすれば、森林伐採をはじめとする環境負荷も倍になるだろう。


 この問題に人類はどう立ち向かうんだろう。
 第2部に、グリーンランドを発見したヴァイキングが、ヨーロッパ風の生活様式を貫き、その団結力で痩せた土地に文明を築いた話が出てくる。
 しかし、300~400年を過ごすうち、彼らは気候の寒冷化という危機に見舞われる。
 ヒツジやウシを飼うのをやめ、イヌイットに学んでアザラシを捕れば、寒冷期を越えられたかもしれないが、彼らはヨーロッパ的価値観を捨てることができずに、歴史から姿を消した。

 「不適切な条件のもとで人々が最も頑迷にこだわる価値観というものは、過去に、環境に対する最も偉大な勝利をもたらしたものでもある」とダイアモンド博士は言う。

 我々が捨てるべき価値観とは何か?
 その回答になりそうなモノはいくつか挙げられているが、個人的に気になったのはそのどれでもない。

 第2部の最後に、ティコピア島の人々の生活が、崩壊をまぬがれた例として出てくる。
 外部からの支援がない孤島では、生産できる食料は限られ、したがって支えられる人口も限られる。
 人口を抑制するため、多産は非難され、堕胎や嬰児殺が日常的に行われた。
 入水自殺も数多く記録されているという。

 ひょっとして、我々が捨てるべき価値観は、
 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」
 「子孫繁栄は人類の願い」
 という類のものじゃあないだろうか。

 ダイアモンド博士は「人口増加率は減少に転じている」と記載するにとどめたが、人間を減らさないことには、環境問題はクリアできない気がする。
 人口過密が環境ストレスを呼び、それが紛争などの政治ストレスにつながるのが文明崩壊へのシナリオだ。
 中国の一人っ子政策は成功したとは言いがたいが、今後こういう試みが世界各地で行われる日が来るかもしれない。誰だってギレン・ザビが「せっかく減った人口です」なんて言う状態にはなりたくないんだから。
 
■2010-07-30
なぜ地属性は衰退したか
 古今東西、いろいろなファンタジーに属性が登場するが、その中でも飛び抜けて不人気なのが地属性である。
 いったいこれはどうしたことだ。

 地属性だけに地味だというのか!
 地面を割るとか十分ハデではないか!?
 母なる大地なのになぜ男臭いイメージしかないのか!?
 空中の敵に効かないとか誰が言い出したんだ!?
 雷が海中の敵に効く世界だぞ!がんばれよ地属性!


 原始、4属性といえばパラケルススの言う「火・水・土・空気」の4元素のことであった。
 ここにはしっかりと地属性が刻まれている。
 だが「ペルソナ」や「ルドラ」を見よ!
 4属性が「炎・氷・風・雷」になってしまっているじゃあないか!
 3属性を考えると真っ先に「炎・氷・雷」が出てくる。
 これはもう間違いなくFFの仕業であろう。

 いったいなぜここに雷属性が割り込んできたのか。 
 そもそも雷は炎や冷気と並べておくべきではない、もっと優位の属性ではないか?
 ギリシャ神話のゼウス、北欧神話のトールなど、神話でも雷を操る神は主神ないしはかなり重要な位置にいる。
 日本にも、雷を操る神といえば「天神」菅原道真がいる。八幡・伊勢に続く神社数を誇るゴッドである。
 ドラクエ3のように、雷属性は選ばれた勇者のみが扱えるものであるべきなのだ。

 FFでも海外版の「ミスティッククエスト」では、基本の黒魔法がクエイク・ブリザド・ファイア・エアロの4種となっており、サンダーはより上位の魔法に位置づけられている。
 クリスタルが火水風土なのだから当然といえば当然といえよう。

 FFが気軽に「サンダー」とか言い出さなければ、雷の優位性は保たれ、したがって地属性が競合の末はじき出されることもなかったのである。


 しかしなぜ土がはじき出されなければならなかったのか。
 「火⇔水」「土⇔風」の対立はわかりやすく、雷がこれを崩すスキはないように思える。

 風と雷が肩を並べた例を考えてみると、まっさきに「風神・雷神」が頭に浮かぶ。
 雷神は前述の天神とつながるが、風神はどんな神なのかよくわからない。二つ合わせて天候を示している、とも言えるが、それでも並列ではあるまい。
 風と雷を並べてしまったのは「風神雷神図屏風」の俵屋宗達のせいなのかもしれない。
 そしてそのせいで、4属性から地属性がはじき出されたのだ。
 
 つまりFFと俵屋宗達のせいだったんだよ!
 なんだってー!


■おまけ

 ここまで「雷が地属性のポジションを奪った」という例を扱ってきた。
 だが実際は、パラケルススの4属性や中国の五行思想(木火土金水)を尊重して、地属性を残しつつ、この中に雷を入れこもうという試みも結構みうけられる。

 では雷はどの属性に入っているのか?

 「聖剣伝説2」では、風の精霊ジンがサンダーボルトを使う。
 「ロマサガ3」では水の術(玄武術)リストの中にサンダークラップが含まれている。
 「天上天下」では、土の氣を操る奴が、地電流と称して電撃技を使っていた。

 稲妻は、気体中の分子が電子をはじき出され、プラズマ化することで光っている。
 プラズマは固体・液体・気体とのいずれとも異なる第4の状態であり、これをパラケルススの4元素と対応させようと言い出したのはクルックスという人だった。
 理科の実験で使ったクルックス管を編み出した人である。
 いわく、土=固体、水=液体、空気=気体、そして火がプラズマである。

 実際、ものが燃えるときに出ている炎もアレはプラズマなので、化学的に分類すれば雷は火属性であってしかるべきであろう。

■2017-10-19追記

 そもそもなんでFF1ではファイアとサンダーがレベル1で、ブリザドがレベル2なんだよ!普通サンダーを上位にしないか!? という疑問をぶら下げていたところ、「ウィザードリィが元ネタでは」という情報をいただいた。過去日記を放流するとこういうことが起きるので大変ありがたい。
 確かにウィザードリィにはハリト(火の玉)、モリト(電撃)があり、それより上位の魔法としてダルト(冷気)がある。属性相性はないのでただのフレーバーだが、さらっとサンダーがファイアと肩を並べたのはここに源流があったとみて間違いなかろう。
 ただ、電気が利用されていないファンタジー世界になぜ電撃という概念があるのか、落雷レベルになるとそれはもう魔法ではなく神の所業ではないか、という疑問はそのまま残る。ここで「ゲームのせつめいしょ」を確認してみると、モリトは「火花を呼び起こす」としか書いてない。おそらく原語ではsparkと書かれていたと推測するが、これがどこかで電撃と解釈され、それが雷魔法が誕生した理由ではないか、というのを現段階の結論としておこう。
 
■2010-07-01
ベッドとベット
 ニトリにベッドを見に行ったとき、「ベッド」と「ベット」の表記が混在していたのが気になった。
 お値段以上に気になった。
 いまさら「ベット」という表記を責めるつもりはないが、せめて統一してくれ。

 以前の日記でも触れたが、我々日本人が許容できる発音は随分増えた。
 かつては「ッ」のあとに濁音が来るような単語は受け入れにくかったのだろう。その結果生まれたのが「ソファーベット」であり「ビックチャンス」であり「エコバック」なのだ。
 すでに外来語として定着しているのでまあいいかと思うが、やはり古い表記だなという印象はぬぐえない。

 しかし我々はそれを笑えるだろうか?
 たとえばエッグやレッグ、ヘッドやレッドなどは迷わず濁点がつけられる。
 だが「シンドバッド」は?「テトラポッド」は?「ロビンフッド」は?「キューピッド」は?
 濁点つきの表記が正しいと自信を持って言えるだろうか?
 外来語の最後が濁るかどうかは発音上も聞き取りにくいことが多く、綴りを意識しない限り混同は避けられない。

 ここでふと心配になった。
 我々が宛名シールなどに使っている、プリンタ用ラベル「タックシール」。あれは本当に「タック」でいいのか?
 タックには「仮どめ」などの意味があり、シールとしては間違っていないような気がするが、宛名を示すのが主な目的なのだから「タグ・シール」だったのではないのか?
 アレを海外では何と呼んでいるのかわからないので何とも言えないが、さらっと言ったら騙せそうなくらいの説得力はある。


 これらの表記が廃れ、濁点つきの表記に統一されていく中で、巻き添えをくう連中が出るのではないかと心配している。
 濁点抜きを駆逐したいあまり、「人間ドッグ」などと口走ってしまうのは避けたい。
 ウォッカの悲劇が繰り返されないことを祈るばかりである。

 ともあれ、現状、この混同が生活に支障をきたすような例は、「ティーバッグ」のつもりで「Tバック」と連呼してしまうハレンチマダムが増えていることくらいだろう。
 たとえ英語的におかしくても「ティーパック(Tea pack)」という呼び方を採用し、差別化することをオススメする。
 
■2010-03-20
特攻平和会館へ行ったこと
 鹿児島は知覧、特攻平和会館へ行ってきた。
 ここには1000人を超える特攻隊員の、遺影・遺品・遺書が展示されている。

 若くして国から死ねと命じられた人間の叫びを目の当たりにして、反戦の思いを新たにする……予定だったが、戦争とは関係のないところで、人間に絶望してしまった。

 1000人超「しか」いないのだ。
 ……こんな事を言うと各所から怒られるだろう。
 特攻基地はここだけではない、全国にはもっといる。
 だがそれでも、南の島で、特攻同然の作戦で玉砕させられた人の方が圧倒的に多い。

 その人たちは、遺書も残せず死んでいったはずだ。
 特攻隊の若者よりも、こちらのほうがはるかに悲劇で、人数も多い。
 にもかかわらず、僕らはその人たちの事を知らない。
 その人たちが生きた道のり、死んだ顛末が記録されていないからだ。

 つまり、僕らは、悲劇というストーリーを通してしか、他人の死を理解できないのだ。
 いくら「何人死んだ」と言っても「何人殺された」と言っても、数字でしかない。
 人の命は等価なはずなのに、より悲劇的なストーリーが残っている人の死がクローズアップされる。
 そうしなければ僕らは他人の死を理解できないのだ。
 それじゃそれが、生身の人間の実話である必要はないじゃないか。
 なんという浅い理解!
 特攻平和会館にあふれる悲劇を見てこのことに気付かされ、人類に絶望した。


 せめて、逆に考えよう。
 フィクションにも、命の重さを表現できる可能性があると考えよう。
 それが、娯楽作品として成立するかどうかはわからないが。