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◆不定期日記ログ◆

■2011-04-22
読書感想文:リスク管理
 詳しくは「移植くじ」で検索していただきたいんだけど、「健康な人の中からくじで1人を選び、その人の臓器を使って5人の患者の命を救う制度」ができるとしたらどう思うか、っていう思考実験がある。当然、思考実験の話なので、移植は確実に成功するし、しなければ死ぬ、というのが前提だ。

 それとは別に、前に流行ったサンデル先生の講義に、「トロッコ問題」というのがある。
 制御不能になったトロッコが5人の作業員がいる方に向かっている。分岐器のそばにいるA氏がスイッチを押せば、トロッコは別路線に入るので5人は助かるが、代わりに別路線にいる1人の作業員が死ぬことになる。A氏はスイッチを押すべきか?……という問いかけ。

 全員助かる方法を考えよ、っていうトンチの問題じゃあない。どちらも「放っておけば5人死ぬ、1人死ねば5人助かる」という状況が確定された上での話だ。でも、トロッコ問題では多くの人が「1人が死ぬ」という選択肢を選んだのに対し、移植くじではほとんどの人が「1人が死ぬ」選択肢に不快感を示す。

 この違いは明白。
 トロッコ問題は「自分」にまったく関係のない問いかたをしているけれど、移植くじはごくごくわずかな確率で「自分」に影響を及ぼす。
 見ず知らずの人の命なら、5個と1個に大小関係をつけることができるし、非常時にはそれが判断材料となる。でも、自分の命を想定すると、とたんにそういう論理が通用しなくなる、という事だ。
 アッタリマエの話だ。自分の命はどんな物とも釣り合わない。確率がどんなに小さくても、失う物が自分の命だったら、期待値はマイナス無限大のままだ。自分の犠牲がどんなに意義のあるものだったとしても、「この宇宙のために死んでくれる気になったら、いつでも声をかけて。待ってるからね」なんて言われて了承なんてするわけない。


 最近読んだ『メディア・バイアス』という本にに面白い話が載っていた。プロレス技でないほうのDDTをご存じだろうか。俺は高校の英語の時間にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を英語で読まされたから覚えている。
 DDTという殺虫剤は安価なため大量に作られていたが、『沈黙の春』によってその危険性が告発され、禁止に至った。……が、その結果、DDTをマラリア蚊の駆除に使っていた国々では、マラリアの犠牲者が年間250万人クラスにまで達したという。これを「レイチェル・カーソンの虐殺」というメディアもある。
 現在は、主に発展途上国で、厳重な管理のうえでDDTが使われているらしい。自然界に影響を与えないであろう範囲で、マラリアを防ぐのに十分な量を使おう、という判断に至ったわけだ。

 もちろん、DDTによって家畜や魚に影響が出るリスクは完全にゼロではない。その危険性がピックアップされたら、我々は「輸入禁止措置を」とか「家畜の全頭検査を」とか、メリットに釣り合わないことを言うだろう。だが、温暖化でマラリア蚊が日本に大量発生したら、同じように防疫するに違いない。

 自分に関係あるかないか、という点でメリットとデメリットを比べると、当然自分に関係のあるほうに軍配が上がるのは当然だ。デメリットによる不安は、つねに利己的に出現する。遠くの国の250万の命と、自分の命は比較することができない。これは冒頭の「自分の命は統計で扱えない」という性質による。


 原理的に「不安になること」は避けられないし、責められるべきことではないと思う。あらゆるものには必ず副作用があり、微少だから悪影響が現れないか、それをはるかに上回る恩恵があるから使用量を管理して使っているかのどちらかだ。
 ならせめて、危険そのものではなく、その管理方法に不安を向けることにしよう。猛獣を恐れるあまり、その檻のほころびを見落とすようなことがあってはいけない。