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◆不定期日記ログ◆

CATEGORY 考察

■2006-01-11
においと病気
 闘病生活の間いろいろな本を読んでいました。
 そこで今回はにおいと病気に関するお話です。

 人間のワキの下からは様々なにおい成分が出ておりますが、そのなかに「アンドロステノール」とかいうにおい成分があります。
 このアンドロステノールですが、女性は排卵期前に分泌量が増えるそうです。
 それだけでなく、他の女性のアンドロステノールを嗅ぎ取ると、自分の生理周期にも影響が及び、つられて連鎖的に生理が始まることもあるとか。
 これを身近な人の生理が伝染する根拠とする説があります。

 話は変わりますが、生理中は病気への抵抗力が普段より落ちるという説があります。
 性病のみなのか総合的な話なのか、個人差はどの程度なのかなど、いろいろあやふやな点はありますが、振り返ってみると結構実例が思い当たるので、それなりに関連はあるのかもしれません。

 いかんせんあやふやなこのふたつの話ですが、僕は信じます。
 ワキのにおいから生理が始まり、生理中は体調を崩しやすくなる。
 昔の人が「やまいワキから」という格言を残しました。
 僕は信じます。
 
■2005-12-01
名前のこと
 自分の名前というのは、生きていくうえで非常に重要なものだ。

 子供に変な名前をつける親は論をまたないとして、普通の名前に聞こえるものでも結構やっかいなものは存在するのではないかと想像するのである。
 名前は自分でつけるものではない。自分に名前があることで便利を感じるのは周囲の人間である。自由勝手に呼ぶがよい、というのが最も自然なありかただが、そのガイドラインとして、また公的な目的において、そのつどあらかじめつけられた名前を引き合いに出す必要がある。自己紹介をして「この名前で呼んでください」と周囲に共通理解を広めるわけである。
 したがって、子供に名前をつけるというセレモニーにおいて、もっとも重要視すべきなのはわかりやすさであると主張する。
 子供の未来を託した名前とか、幸運な画数の名前とか、独創的な名前とか、そんなことよりはわかりやすさを第一におくべきだと思うのだ。

 もちろん、わかりやすさだけを追求すると、数字を使用したデジタルな名前(ナントカ13世とか)ばかりになってしまうので、ここではある程度夢だとか希望だとかを含めて考える柔軟性も必要であろう。
 また、スズキさんなどがあまりありきたりな名前をつけると同姓同名が増えて逆に紛らわしくなるので、独創性も極端に無視するわけにはいくまい。

 例えば、「なつき」という名前をつけることを検討する場合。

 将来、自己紹介をするときのことを考える。
 相手が目の前におらず、あるいは名刺などをもっておらず、かつ相手に名前を正確に伝えなければならない事態というのは、社会生活においてけっこう遭遇するものである。
 そのときに、「夏の希望と書いて夏希です」で済む場合と、「奈良の奈に津波の津に紀行の紀です」と説明しなければならない場合では、相手に与える印象だけでなく、消費されるエネルギーにも大きな差が出るのではないか。そこで相手が「気候の気…?」などと勘違いしたらさらに大きなエネルギーを要することになる。また、「ナは那覇の那で…」といって相手がその漢字を思い浮かべることができない場合は伝達がさらに困難となる。
 一回一回の自己紹介ではたいしたことがなくても、人生単位で考えると、想像しただけで気が滅入ってくる労力だ。実際俺の母者などは、これを苦にして開き直り、公文書以外ではひらがな表記を浸透させているくらいだ。

 いくら夢や希望が託されていても、画数が幸運でも、自己紹介のたびにエネルギーを使う名前では、きっと子供は煩わしがる。
 少しばかりかぶってもいいから、もっと簡素な名前をつけてもよいのではないかと思う。

 あと、一般的であるにも関わらず、「旧字体で」といっても通用しないサイトウ(斉藤・斎藤・齋藤…)さんやワタナベ(渡辺・渡邉・渡邊…)さんに関しては同情を禁じえない。どうやって説明しているのだろうか。苗字だから逃れる術はないし、IMEで変換できないなら諦めもつこうが、なまじ変換できるがために新字体で開き直ることも難しい。その苦労を思うと頭が下がる思いだ。

(今日の仕事…約500人分の高校生の名簿入力)
 
■2005-10-27
語感のロマン
 …言葉っていうのは実に不思議なものだ。

 言葉は、その意味が他人に伝わって初めて意味を成す。
 ならば、はるか昔ウッホウッホ言ってたサルが、ヒトとなって器用な声帯を獲得したころ、いったいどうやってその意味を作り出したのだろう。

 言葉の意味というのは、常に大衆が決めるものだ。
 以前の日記で「シキャク」か「シカク」かあるいは「セッカク」か、という問題を調べたことがあったが、言葉は結局通じればよいものなので、聞く者が正しく理解できればそれで問題はないのである。
 今はたぶん「刺客」という文字を見て「シカク」と読む人が多いから、この文字を「シカク」と読むのが正しいっぽいのだ。

 太古、言葉ができたときも、きっとこうやって決まっていったのではなかろうか。
 土がもっこりしてるところを見て、なんか「やま」って感じ、って思う人が多かったのではなかろうか。
 もちろん「刺客」と違って、読み方のガイドラインになるものは何もない。ある人は「あぼ」だったかもしれないし、「ふず」だったかもしれない。そんな言葉の戦国時代の中で、もっとも人気を集めたのが「やま」だったではなかろうか。

 そう考えると「道路」と「Road」の不自然な類似が説得力を持ってくる。やはり「どーろ」とか「ろーど」とかいう語感が、「なんか人が通るずーっと続いてるもの」という概念にぴったりきたんだと思う。きっと「But」と「ばってん」もそうに違いない。すごいな九州人。
 そういうわけで、きっと、語感のイメージというのは馬鹿にならないのだ。

 だから、「ハリケーン」っていう語感はなんかカラカラに乾いてる感じだし、「トルネード」っていう語感はなんか水をたっぷり含んでそうな重たいイメージがあるし、要するにこいつらが間違ってるんだ!


 以上、トルネードとハリケーンを間違えた言い訳でした。
 
■2005-10-06
流れゆくものたち
 「おざなり」「なおざり」は、どうやら違う言葉らしい。

 「おざなり」は「なおざり」の言い間違いだと思っていた。
 だいたい意味の違いが微妙すぎる。
 意味の違いを辞書やグーグル先生で調べたが、いまいち正確に把握するに至らなかった。まあ、把握したところでどっちがどっちかわからなくなるのがオチだろう。

 しかし、調べているうちに興味深い一説に行き当たった。
 「おざなり」「なおざり」は、音の前後が入れ替わって生まれた言葉だという。
 「あらたな」から「あたらしい」が生まれたように、この「音転現象」によって、どちらかがどちらかから派生したという説だ。
 最初は言い間違いだったのかもしれない。だが、それがいつの間にか言葉として市民権を得たというのだから、なんとも壮大なロマンを感じさせる。
 いつか「ふんいき」から「ふいんき」が派生してくる日のことを思うと、たまらなくドキドキするじゃあないか。

 しめの一句。

 秋立つや トウモコロシと ブッコロリ
 
■2005-08-22
シンプリファクション
 最近新党を立ち上げたあの人が、テレビで「シキャク」と言っていた。
 何かと思ったらテロップは「刺客」だった。
 アナウンサーは「シカク」と言っている。
 これ「シカク」だよな?

 どうしても疑問が頭から離れなかったので、広辞苑に頼る。
 「シキャク」で引くと、「→しかく」と書いてある。
 「シカク」で引くと、言葉の意味に加えて、「セッカクの慣用読み」と書いてある。

 つまりもともと「刺客」は「セッカク」で、そのうち「刺」が「シ」と読まれるようになり、今まさに「客」が「キャク」になっている最中なのだろう。

 言葉の扱いは、影響力のある人によって多数決で変わっていく。まさにその瞬間を見たような感じがした。
 そのうち「相殺」とかもソウサツになるのかもしれないな。
 
■2005-08-16
便乗わだかまり
 「お電話一本で」という言葉が気になる。
 「一本」という単位が特に腑に落ちない。

 そもそも「お電話一本」とはいうが「二本」以降は聞かない。
 あれなのか?電話回線だから一本、二本…なのか?しかし「事務所は電話が6回線使える」などと言って「一回線、二回線…」と数える人が多くないか?
 なら回数なのか?しかし「昨日の朝お前に6本も電話したんだぜ」なんて言わない。これはもう完全に「6回」だ。
 全然「6本」って数えないではないかッ!
 クソッ!クソッ!なんで一本なんだよ!
 「お電話一本で」って何が一本なんだよ!

 当然この日記は職場の回線一本で書かれたものなので、修正などしない!
 
■2005-08-15
思い出の後先
 「後にも先にもこれっきり」という言葉が気になる。
 「後にも先にも」っていう部分が特に腑に落ちない。

 まず「後」の反対が「先」というのがあやしいものだ。
 確かに「後払い」の反対は「先払い」。これはわかる。スゲーわかる。「後」は事象の起こったあと、「先」は事象が起きるまえの話だ。でも、「ここから後は任せろ」「ここから先は任せろ」といった場合、どちらも未来の話になる。
 同じ単語なのにまったく逆の意味でまかり通ってるではないかッ!
 クソッ!クソッ!どっちだよ!
 「後先考えず」って過去のことは考えに入ってるのかよ!

 当然この日記は後先考えずに書かれたものなので、オチなどない!
 
■2005-08-12
二十歳になった君へ
 自分自身の若さゆえの過ちというのは、認めたくないものだ。
 あのキャスバル・レム・ダイクンですら認めたくないのだ。
 いわんや僕らをや。

 大事なモビルスーツを失うほどではないにせよ、これを読んでいるあなたにも、認めたくない若さゆえの過ちが一つや二つあるのではなかろうか。
 誰だってそう。僕だってそうなんだ。
 成り行き任せの行為に墜ち、時には誰かを傷つけたとしても、そのたび心痛めるような時期ではないのだから。
 商店街で「アレ買ってぇー」とジタバタしたことも、はじめて見た電車に対して「おーい!バスー!!」とCOOLに絶叫したことも、なにもかも認めたくない過ちだ。

 そして、そんな最高に調子こいてた幼年期の破天荒なエピソードを、久しぶりに会う来客に対し両親が「うちの子ったら幼稚園のときにね~」などと切り出したなら、誰だって赤面するだろう。そして「最低!お父さんなんか嫌い!もうお父さんのブリーフと私の服いっしょに洗わないでよね!!」と激昂するだろう。
 話題に出されただけでこの死にたさ。
 現代では写真やビデオに残されている可能性もある。
 そんなモノを見せられたら…その死にたさは想像を絶する。

 ましてや、それが全国に公開されていたら。

 そんな身の毛もよだつような事を、「クレヨンしんちゃん15周年」のニュースを聞いて、思ったのである。
 20歳になって、若さゆえの過ちの集大成が、漫画・アニメ・映画となって全国に公開されていたことを知ったなら…僕なら羞恥心のあまり一定時間顔からファイアボールが出るようになって憤死するだろう。
 黙祷。
 
■2005-06-21
四字熟語シンパシー
 「跳梁跋扈チョウリョウバッコ」という言葉の荒々しさが好きだ。

 曖昧模糊の「もこ」も好きだし、
 魑魅魍魎の「チミ」も魅力的だが、
 やはり跳梁跋扈は完成度が高い。

 梁を跳び越え、わくを無視して自由勝手にはびこる。
 「チョーリョー」という響きはなんだかすごく軽やかに飛び跳ねている感じがする。そのうえ、そこに「バッコ」である。「バコン」でも「バコッ」でもなく「バッコ」。すごい勢いで踏みつけたような音である。
 イメージとしてはノコノコを踏みまくるマリオだ。しかしマリオの奴では「ピョーンピョーンポコッ」くらいが関の山だろう。「チョーリョーバッコ」にはそれをはるかに凌駕する勢いがある。
 曖昧模糊とした魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界など心がおどるようだ。

 あとどうでもいいけど魑魅魍魎は「鬼」の部分が無駄なのでカッコでくくって外に出して計算したくなるよね。
 
■2005-06-16
進化する言葉
 先日の日記で「情けは人のためならず」について触れた。
 もはや「意味を間違えやすいことわざ」の代名詞といってもよいほどの扱いをうけているこのことわざだが、今日はこれについて考えてみたい。

 「情けはひとのためならず」というのは、「情けはひとのためではない(自分のためなのよ、どんどんしなさい)」という意味のことわざであるが、たいてい「情けはそのひとのためにならない」と誤解しやすい、と注意書きがされている。
 しかし、やはりことわざは実生活で使われてこそ生きてくるもの。現代社会の風潮においては後者のほうが使える場面がダンゼン多かろう。「いや日常生活でことわざとか使わねーよ」という意見は、ええい、この際無視する。とにかく、人を助けて「いえ自分のためですからコレ」という機会にはなかなかお目にかかれない。「情けをかけても相手のためにならない、容赦しないで行け!」という機会のほうが多いし、時代に即しているのではないか。

 言葉は生き物である、と言われるように、その意味が変化するのはごく自然なことである。それ自体は否定しない。
 しかし「情けは人のためならず」というのはよーするに「人のためなり」の否定なのであって、「人のためにならず」ととるにはちょっと違和感がある。よって、新しく「情けは人のためにならず」ということわざを作り、時代の流れのなかに放り込んでみるのがよいのではなかろうか。

 「渡る世間に鬼はなし」という言葉がある。しかしいまや橋田壽賀子の力で「渡る世間は鬼ばかり」のほうが広く定着した。時代に即した新しいことわざを作ることは不可能ではないはずだ。僕は日本語のそういう力を信じている。
 力こそパワー!
 言葉こそランゲージ!
 
■2005-06-15
見たことないサムシング
 教科書に載ってる空想上のものコンテスト。
  • 理科の教科書に載ってる、摩擦のない滑車や車輪。
  • 英語の教科書に出てくる、りんごとみかんの区別ができないボブ。
  • 国語の教科書に出てくる、「情けは人のためならず」の意味を間違って覚えてる人。
 見たことない見たことない。
 
■2005-05-31
「学者」と「詩人」
 僕は、心に「学者」と「詩人」を育ててゆきたい。

 今回は真面目な日記だ。最近当サイトに意外な読者層(主に家族がらみ)があることがわかったので、突然真面目なことを書き始めて「何かあったのか!」と心配させてはよくないから、あらかじめ断っておかねばなるまい。今回は真面目な日記だ。

 最近僕は、言葉を用いて他人の理解を得るには「学者」と「詩人」の心が必要だと思うのだ。
 この場合における「学者」とは「物事を論理的に考える力」だと思っていただきたい。同様に「詩人」とは「物事を感情的に過不足なく表す力」のこととする。

 例えば人を説得する場合、まず堅牢な理論が必要だ。感情だけでは万人を説得することはできないだろう。かといって、理論が完璧であっても、理屈そのものに心を打たれて行動する人はなかなかいない。それゆえ、説得者はその理論を相手にあわせて受け入れやすく伝えるための言葉や言い回しを探す事になる。ここで、理論を感情的に咀嚼して伝えるという工程がはいるわけである。

 説得する相手が一人ならまだしも、複数人、あるいは大衆に理論を受け入れてもらいたい場合、その工程ははるかに困難なものになる。その結果、淘汰された理論は詩的な響きを持つようになり、中でも究極まで過不足なく洗練されたものが、様々な名言・名文・ことわざ等の中に残っているのではあるまいか。

 僕は、言葉を使って何かしようというときに、このことを意識していきたい。
 その決意表明を実践的な例として示したのが冒頭の一文であるのだが、現状ではまだまだ精進する必要がありそうである。
 しかも精進した結果は、当サイトの不真面目な文章の中ではあまり表には出てこないだろう。世の中うまくいかぬものである。
 
 なお、例によって、次回から不真面目な日記で心のバランスをとる。
 
■2005-04-10
妄想Conclave
 あのローマ法王・ヨハネパウロ二世が亡くなられる前後から、各所で盛んにネタにされてきた法王選挙会「コンクラーベ」
 鍵が掛けられた部屋に閉じこもった世界各地の枢機卿たちが、三分の二の票を獲得する者が出るまで延々と投票を繰り返す…というなんかミステリ向けの選挙システムが、まさしく根比べであるとして民明書房的なネタになるのは日本人として当然の流れだろう。

 だがこれは本当にネタなのか?
 法皇選挙は密室で行われている。部外者やマスコミは入れない。映像も写真もない。参加している枢機卿以外には、実際に投票しているかどうかを知るすべはないのだ!
 本当に根比べしている可能性も否定できないではないか!
 だってコンクラーベだぞ!
 最近NHKニュースとかでも開き直って「根比べ」って言ってるように聞こえてきたぞ!!

 ヨハネパウロ2世が選ばれたとき、決定か未決定かを知らせる「煙」の色がなんか紛らわしかった、という話を聞いた。
 つまり前回の根比べは「爆熱!ジリジリお灸耐久レース」だったんだ!
 未決定を示す黒い煙に、部屋中に充満したお灸の煙が混ざって紛らわしくなったんだよ!
 な、なんだってー!

 今回は煙に加えて、鐘を三回鳴らすことによって決定を知らせるらしい。
 …なんてことだ!
 次の根比べは格闘技かッ!!
 
■2005-04-01
ニラニラロッケンローレ
 エイプリルフールだからといってウソの日記を書いたりしない。
 だって他のサイトのエイプリルフールネタのほうが面白いもん。
 それが2002年から続く俺のジャスティス。

 そんなことはひとまず置いておいて。
 本日4月1日には、平成の大合併始まって以来の大量の市町村合併が行われる。
 地元・静岡県でもあちこちで合併が起こる日だ。

 その時流にのって、本日、中伊豆地方に「伊豆の国市」が誕生してしまった。
 伊豆長岡・韮山・大仁の3町が合併して、なぜか「伊豆の国市」
 すぐ隣に「伊豆市」ができたのに「伊豆の国市」
 もちろん学校は「伊豆の国市立」

 この新市名に関して非常に残念なことがある。
 韮山町には「韮山町韮山韮山」という実にニラニラしい地名があるのだ。
 おおっと警戒しなくていい。ウソじゃない。本当だ。
 絶対誤植だと思って調べ尽くしたが本当だ。マピオンにも載ってる。

 このあまりにもニラニラしい地名が、「伊豆の国市韮山韮山」となってしまい、ニラニラしさがぐーんと下がってしまうのが残念でならない。

 ウソのような本当の日記だ。
 
■2005-03-30
ジョジョで奇妙な年号計算
 今年ってよォー、昭和に直すと『昭和80年』なのか?それとも『79年』なのか?

 年について深ーく考えるってことはよォ―――、
 『幸せに生活してるか?』どーかにつながるからよー、
 とっても大切なことだと思うわけよ。

 …でな!!『年号』ってあるよな?
 昭和とか平成とかよォ~~~ッ、
 そーいった年号ってのは、デジタルな世界ではあまり見ねー。
 なぜか?
 異なる年号同士の足し算引き算がめんどくせーからだ!めんどくせーんだよ!
 いい?みんな?
 異なる年号の場合わざわざ西暦に直さないと計算できねー。
 ここまでいい?
 
 一方でよ、『ジョジョ』って漫画知ってる?
 ジョジョは歴史が深い…単行本がたくさん出てる漫画なんだ。
 単行本はフツー、一巻から最終巻まで連番になってるもんだが、
 ジョジョは63巻で一旦リセットされてる…。ストーンオーシャンだからだ。
 こー考えるとだなあー、オレたちがめんどくせーって思ってる昭和は、
 ジョジョ五部までと同じ数なんだよ。

「ジョジョ紳士はすでに答を掴んでいる…
 年号を計算する意思を持つならなぜそれを使わない?」

 つまり結論ッ!
 『ストーンオーシャン17巻』『ジョジョ80巻』
 だから『平成17年』『昭和80年』なんだッ!

 これで平成と昭和の年号同士で「何年ぶり」とかアッサリ計算できるようになったが、プッチ神父が倒されてしまったのでこの手は今年までしか使えない。
 やれやれだ。
 
■2005-03-25
Singing イオン
 またしても卒業式がらみのエピソードですけど。

 マイナスイオンを出す製品とかが流行ってるじゃあないですか。
 アレに関して、卒業しちゃうまえに先生に質問しにいったんですよ。
 マイナスイオンマイナスイオンっていうけどプラスイオンはどこにいったのかと。

 マイナスイオンがある限り、どっかにプラスイオンがないとオカシイわけで。
 結論から言うと、よーするに、明らかに酸性であるウメボシが「アルカリ食品」と言われてるように、人間の体内に入ってどう働くか、っていう問題で、実際にマイナスイオンがブリブリ生産されてるわけじゃあないらしいです。

 だから僕が想像してたように、産業廃棄物処理場に「プラスイオン」って書かれたダンボールがゴロゴロしてるとかそういう事はないみたいだから、良い子のみんなは安心して生活していいです。