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◆不定期日記ログ◆

■2005-12-01
名前のこと
 自分の名前というのは、生きていくうえで非常に重要なものだ。

 子供に変な名前をつける親は論をまたないとして、普通の名前に聞こえるものでも結構やっかいなものは存在するのではないかと想像するのである。
 名前は自分でつけるものではない。自分に名前があることで便利を感じるのは周囲の人間である。自由勝手に呼ぶがよい、というのが最も自然なありかただが、そのガイドラインとして、また公的な目的において、そのつどあらかじめつけられた名前を引き合いに出す必要がある。自己紹介をして「この名前で呼んでください」と周囲に共通理解を広めるわけである。
 したがって、子供に名前をつけるというセレモニーにおいて、もっとも重要視すべきなのはわかりやすさであると主張する。
 子供の未来を託した名前とか、幸運な画数の名前とか、独創的な名前とか、そんなことよりはわかりやすさを第一におくべきだと思うのだ。

 もちろん、わかりやすさだけを追求すると、数字を使用したデジタルな名前(ナントカ13世とか)ばかりになってしまうので、ここではある程度夢だとか希望だとかを含めて考える柔軟性も必要であろう。
 また、スズキさんなどがあまりありきたりな名前をつけると同姓同名が増えて逆に紛らわしくなるので、独創性も極端に無視するわけにはいくまい。

 例えば、「なつき」という名前をつけることを検討する場合。

 将来、自己紹介をするときのことを考える。
 相手が目の前におらず、あるいは名刺などをもっておらず、かつ相手に名前を正確に伝えなければならない事態というのは、社会生活においてけっこう遭遇するものである。
 そのときに、「夏の希望と書いて夏希です」で済む場合と、「奈良の奈に津波の津に紀行の紀です」と説明しなければならない場合では、相手に与える印象だけでなく、消費されるエネルギーにも大きな差が出るのではないか。そこで相手が「気候の気…?」などと勘違いしたらさらに大きなエネルギーを要することになる。また、「ナは那覇の那で…」といって相手がその漢字を思い浮かべることができない場合は伝達がさらに困難となる。
 一回一回の自己紹介ではたいしたことがなくても、人生単位で考えると、想像しただけで気が滅入ってくる労力だ。実際俺の母者などは、これを苦にして開き直り、公文書以外ではひらがな表記を浸透させているくらいだ。

 いくら夢や希望が託されていても、画数が幸運でも、自己紹介のたびにエネルギーを使う名前では、きっと子供は煩わしがる。
 少しばかりかぶってもいいから、もっと簡素な名前をつけてもよいのではないかと思う。

 あと、一般的であるにも関わらず、「旧字体で」といっても通用しないサイトウ(斉藤・斎藤・齋藤…)さんやワタナベ(渡辺・渡邉・渡邊…)さんに関しては同情を禁じえない。どうやって説明しているのだろうか。苗字だから逃れる術はないし、IMEで変換できないなら諦めもつこうが、なまじ変換できるがために新字体で開き直ることも難しい。その苦労を思うと頭が下がる思いだ。

(今日の仕事…約500人分の高校生の名簿入力)