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◆不定期日記ログ◆

CATEGORY 時事と危機

■2007-11-28
不適切な日記
 「万引き」という言い方をやめて、きっちり「窃盗罪」と表現せよ、という意見はよく聞く。
 あわせて、「少女に悪質ないたずらを~」などという言い回しもやめ、きっちりと「強制わいせつ」と言うべきだ、という意見も聞く。

 したがって、「個人ブログで不適切な発言を~」という言い方も金輪際やめるべきだ。
 万引き…じゃなかった、窃盗を咎められた男が「不適切な行為でした」と述べたら店長に殴られても文句は言えないだろう。
 他人を公然と侮辱するのは確実に犯罪なのだから、きっちりと「個人ブログで他人を侮辱」と言うべきだ。

 「それだけ強く主張するということは、お前がいまやってるサービス残業も、きっちりと『労働基準法違反』と言ってさしつかえないのだな?」

 さしつかえるので今日の日記はなかったことにします。
 
■2007-09-12
おもしろさ至上主義
 投票に行かない人の言い分として「誰に投票しても同じだから」というのがある。
 一理ある。
 キチンと投票している僕でも、心の底ではそれを実感しているからだ。

 投票率の低下に歯止めをかけるべく、受付時間を延長してみたり、期日前投票を簡素化したり、いろいろな策が打たれた。
 今後も投票行動にかかるコストは少なくなっていくだろう。

 しかしそれは違うんじゃあないのか?
 どんなにコストが0に近づこうが、コストはコスト。
 少なくなるのはいいことだが、民衆にはびこる「誰に投票しても同じ」という意識を払拭できない限り、根本的な解決になるとは思えない。

 なぜ「誰に投票しても同じ」だと感じるのか?
 単純なことだが、それは画一化されすぎた選挙運動のせいだと思う。
 おんなじような選挙ポスター、名前を連呼するだけの選挙カー、何一つとして違いを感じるものがない。
 公平性を保つための公職選挙法が効きすぎて、候補者それぞれの差別化が行えなくなってしまっているのだ。

 まったく知らない人の街頭演説の内容を吟味するコストは、投票所へ行くコストをはるかに上回る。
 簡単に一覧できるポスターは顔と名前しか書いていない。選挙カーからも名前しか聞こえてこない。
 こんな状態では「誰に投票しても同じ」と感じるのもやむをえない。

 もうちょっとおもしろい選挙運動ができるよう、公職選挙法をいじる必要があるのではないか?
 ミスチルのニューアルバムの広告と間違うような、斬新な選挙ポスターがあってもいいのではないか?
 翌日には演説動画がYouTubeにアップされてしまうような候補者が、もっといてもいいのではないか?

 まつりごとは粛々と行うもので「祭事」にしてはいかんという考え方もあるだろう。しかし執政者が変わるということは、民衆にとって祭りであってもいいはずだ。
 次はもっとおもしろい選挙になることを祈る。


 でもおもしろいこととふざけていることは違うので、そこんとこ踏み外さないでください。
 
■2007-09-09
給食費のドラマ
 小学校の先生が語った話である。


 その先生のクラスには、母子家庭のAさんと、父子家庭のBさんがいた。
 ある日突然、Aさんの母親とBさんの父親が結婚した。
 AさんとBさんは同じ苗字となり、兄弟(姉妹?)になった。

 これだけでも相当ドラマティックでドメスティックな出来事だが…、

 実はAさんの家庭は給食費の支払いを拒否しており、給食を止められていた。
 Bさんの家庭は普通に給食費を払っている。

 この二つの家庭が一つになった。
 しかしAさんの母親は相変わらず給食費を払わず、Bさんの父親は払っている。
 Bさんは給食を食べ、Aさんは弁当を持参している。
 二人は兄弟で、同じ家から同じように登校してくるのに。


 これが「確信犯」って奴なんだろう。
 給食費を払わないことが自分にとって「正義」であり、
 そのためなら家族としてのまとまりを犠牲することもいとわない。
 そういう、本来の意味での確信犯のお話。
 
■2007-07-13
選挙前なのでまじめな話
 「国の借金」という言い方が気に食わない。
 とくに社会の教科書でもこういう言い方をしているのが気に食わない。

 国債っていうのはたしかに借金だが、一般のイメージする借金とはちょっと違う。
 外国債でなく内国債である以上、それは将来手に入る予定の税金の「前借り」という意味合いが強いじゃあないか。
 こう考えると「借金」という言い方のアンフェアさがにじみ出て来る。

 800万の借金をしている奴が、今月も30万の借金をしようとしている。
 これは当たり前のことだ。
 当たり前じゃあいけないんだが、我々はこの手の話を、多重債務の恐ろしさの話などで頻繁に聞いている。受け入れやすい状態だ。

 こうなってしまった債務者はもうオワタ状態なので、
 「日本は終了しました」という無責任な印象を相手に伝えるにはもっとも手っ取り早いたとえだろう。

 ところがこれを「前借り」という言い方をすると印象が変わってくる。

 すでに小遣いを8000円前借りしている小学生が、さらに今月300円を追加で前借りできるか?しかもこいつの小遣いは月500円なんだぞ!

 できるわけがない。
 我々はそういうお話を聞いたことがない。先の多重債務者の話よりずっとありえない話だ。
 素直に「前借り」にたとえたほうが、「借金」にたとえて800兆がどうのと並べ立てるよりも、よっぽど今の財政の異常さを正確に示しているじゃあないか。

 なのに変な例ばっかりで、こうして前借りという表現を使った説明を見たことがない。
 ましてや家計にたとえて「こんなにヤバイ!」とか言うのは絶対にフェアじゃない。

 そんなに思考停止させたいのか。
 「なんでそんな前借りをさせちゃってるの、俺たちは?」っていう「疑問」をより喚起させたほうが、年金問題や福祉の問題につながるじゃあないか。

 多重債務者のエピソードとマッチングしてしまう「借金」という言い方は、逆に現実から目を背けさせるだけの不適切なたとえだと主張したい。
 以上!
 
■2007-05-04
緑一色
 みどりの日なわけだが…

 そもそもみどりの日っていうのは、昭和天皇の誕生日であった4月29日を、平成になってから「生物学者であり自然を愛した昭和天皇」にちなんで「みどりの日」としたんだったよな…
 その舌の根も乾かぬうちにそれを「昭和の日」に改めるとはけしからん。
 けしからん、が…それはもういい。誰だって間違いはする。

 だがその結果みどりの日を今日に移すっていうのはどういうことだァーッ!?
 間違ったんならきっぱりと「みどりの日は昭和の日になりました」でいいだろーがッ!
 イマイチ名前にひねりと意味がない「国民の休日」と首をすげかえてリサイクルしたつもりとは、あまりにもみどりの日に対して誠意がなさすぎる。
 「はいはい同じ価値のもので弁償すればいいんでしょ」的な投げやりなつじつまあわせが感じられて、運命をいいように弄ばれたみどりの日が不憫でならない。

 一度ミスってポシャったんなら、いさぎよく引退させてやればよいのだ。
 ポシャった規格をデジタル放送の名前としてリサイクルするNHKのようで、美しくない!

 今年もグリーンデイを聞きながら、そういう不満を募らせている。
 
■2006-11-04
「いじめはなかった」
 現職の中学校の先生から興味深い話を伺った。

 なぜ校長は記者会見で「いじめはなかった」と言うのか。
 誰がどう考えてもいじめがなかったわけがないのに。
 死者まで出ているのに。

 責任逃れ?それもあるかもしれない。
 だが、校長個人の思惑はどうあれ、
 学校としては"そう言わざるを得ない"のだ。

 「いじめはあった」と言えればどんなに楽か。
 いじめがあったかどうかの確認が取れていないはずがない。
 しかし「あった」と言ってしまえば、マスコミの次の質問は当然、

 「ではいじめていたのは誰か」

 という方向にうつる。
 死者まで出た以上、学校は人をいじめ殺した生徒なんてすぐに把握している。
 だが「こいつとこいつがやった」と言うわけにはいかない。
 もし言えば、過剰報道のマスコミは即座に興味本位の犯人探しを始める。
 ネットには即座に名前と顔写真が出る。

 人をいじめ殺すような連中、家族もろとも永遠に抹殺されてしまえばいい、という考えも理解できないことはない。
 しかしそれを行うのは断じてマスコミではない。
 犯人として報道に乗れば、弁解の余地なくゲロ以下の悪人だ。間違ったって謝罪はしちゃくれない。

 だから校長はとにかく「いじめはない」と発言して、マスコミの矛先を学校批判へと向けるしかないのだそうだ。
 過熱報道が冷めるのを待ち、学校と少年法とが加害者の対処を決める。
 少年法がヌルいのは確かだが、マスコミが人を裁くようなら世も末だ。裁判員制度の導入で、マスコミの影響力はさらに加速するだろうし。


 「いじめ問題では学校の対応ばかりクローズアップされるけど、死んだ奴の次に精神ダメージ負ってるのは加害者じゃね?なんでそっちはニュースにならんの?」って日々思っていたが、この視点からのお話で合点がいった。
 
■2006-06-15
みんな病んでる
 写真週刊誌レベルのネタになるけどよぉーっ…

 「鬼母」?「バカッ母」?
 写真週刊誌たるものが、なぜそんな使い古された単語を使う!
 いまや時代は「心の闇」だぞ!具体的にはよくわかんないけど。
 現代人は病んでるんだぞ!具体的にはよくわかんないけど。

 こうなったら俺が新世代の単語を提唱する!

 「病んママ」

 これだ!
 以降母親がなんらかの事件を起こしたときはこれだ!
 
■2006-05-11
ソラミミストの生活
 中国の李肇星(り ちょうせい)外相だけど、
 なんか必殺技っぽくね?

 主人公:
 「この時を待ってたぜ…スキだらけだ!」

 相手:
 「なにぃ!」

 観客:
 「げえーっ!」「あれはーっ!」

 主人公:(見開きで)
 「くらえ俺の渾身の力をこめて放つ…
  離跳星凱掌―――ッ!!

 相手:
 「ぐああーっ!!」

 昔のライバル:
 「…あ、あれが新しい星凱掌…離跳星凱掌!
 なんと凄まじい力を身につけて帰ってきたんだ!」

 ニュースで聞くたびに頭の中はこんな感じ。
 
■2006-02-18
びっくりドンキー
 スピードスケートの及川佑おいかわゆうや選手だけど、新聞記事で名前が上がるたびに「及川佑(びっくりドンキー)」と書かれるので、ちょっとお茶目なイメージがある。
 まあ「及川佑(アレフ)」とだけ書かれるよりはずいぶん良いが。

 ところで、静岡でハンバーグレストランといえば、びっくりドンキー以外にも「炭焼きレストラン さわやか」がある。
 社名も「さわやか株式会社」なので、万が一、及川選手がこっちのハンバーグレストランに所属していた場合、全ての記事での扱いが「及川佑(さわやか)」となる。

 【スピードスケート男子500メートル】
 及川佑 (さわやか)が終盤までメダル争いを演じたがあと一歩及ばず…

 なんか、メディアに勝手にキャラ付けされてるみたいだ。
 
■2006-02-17
こんな実況も嫌だ
「完全にメダル争いからとりのこされましたーっ!
 トリノだけに!

 …トリノだけに!!」
 
■2006-02-16
こんな実況は嫌だ
「またしてもメダルをとりのがしましたーっ!
 トリノだけに!

 …トリノだけに!!」
 
■2005-08-22
シンプリファクション
 最近新党を立ち上げたあの人が、テレビで「シキャク」と言っていた。
 何かと思ったらテロップは「刺客」だった。
 アナウンサーは「シカク」と言っている。
 これ「シカク」だよな?

 どうしても疑問が頭から離れなかったので、広辞苑に頼る。
 「シキャク」で引くと、「→しかく」と書いてある。
 「シカク」で引くと、言葉の意味に加えて、「セッカクの慣用読み」と書いてある。

 つまりもともと「刺客」は「セッカク」で、そのうち「刺」が「シ」と読まれるようになり、今まさに「客」が「キャク」になっている最中なのだろう。

 言葉の扱いは、影響力のある人によって多数決で変わっていく。まさにその瞬間を見たような感じがした。
 そのうち「相殺」とかもソウサツになるのかもしれないな。
 
■2005-07-10
ロンドン同時多発
 こういう悲しい事件が起こるたびにふと思うんだけど、
 テロの直後にインターネットに出た犯行声明が、
 全然関係ない奴がそれっぽくでっち上げたニセサイトだったら、
 テロリストに対するテロだよな。
 全世界に対するフィッシング詐欺だよな。
 
■2005-06-13
実名報道
 例の高校の爆弾少年の本名が「山口光」だったら、各テレビ局に戦慄が走ると思った。
 
■2005-03-10
ザ・世知辛い
 なつかしの絵本、「ろくべえ まってろよ」では、
 ろくべえを救うべく、子供たちが奔走する。

 母親の協力を得ることができなかった子供たちは、
 通りかかったゴルフクラブをもった暇そうな人に協力を求めるが、
 現代では「ドキドキまあちゃんゲーム」に即すまでもなく赤信号である。

 ろくべえの時代はのんびりしていた。
 
■2005-02-23
「ゲーム」が悪い?
 時事ネタはスルーするのがいつもの姿勢だが、たまには日記らしく、その時思ったことをそのまま記録してみるのも良かろうなのだ。

 時事ネタというのは他でもない、大阪で、小学校に侵入した卒業生が教師を刺し殺した事件のことである。
 いまさら僕が何か書くまでもなく、様々な人が様々な場で意見を書いたり言ったりしている話だが、今日は真面目にこの話題で日記を書いてみる。

 なぜ人々は殺人の動機などを理解したがるのか。そんなもの当人以外にわかりはしないのに、人々は納得できる動機を見つけ安心したがる…そんなような事が森博嗣のミステリに書いてあった。
 今回の事件では、犯人の趣味の一つがテレビゲームであったことから、これまでの例に漏れず、さかんにテレビゲームの危険性が話題に上がっている。テレビゲームは僕もご多分にもれず詳しいですからね…この話題は日本の若者なら「もうあきたよ」というものです(花京院風に)。
 とりあえず巷で散々ダメ出しされているトンデモ学説などは、いまさら僕が語るような余地は残されていないと思う。

 しかし、そういった類の話で頻出する「ゲームが青少年に悪影響を与える」というくだりであるが、これはその通りだと思う。僕は中学生のころ「MOTHER2」に出会って涙を流すほど感動したし、最近のリメイクでも感動した。ゲームが感動を与えることがある、ということを体験している僕としては、逆に悪影響も与えうるであろう事は否定できない。
 もっとも、ゲームに影響されて殺人を犯すような人格を持つ者は、刑事ドラマを見ていてもニュースを見ていても犯罪に走るような気がするが、これを裏付けるデータを取るのは困難そうなので主張しないでおく。

 では何が不平で真面目に日記なんて書いているかというと、「ゲーム」を「ゲーム」としてひとくくりに語ることなのである。
 実際のところ、ゲームが青少年へ及ぼす影響について研究している方々は色々区別しているのだろう。しかし、メディアに跳梁跋扈するゲーム危険論に、どうしても「ゲームというもの」が危険であるかのようなアピールが感じられるのが個人的に気に食わない。

 結論に至るまでの解説は色々あろうが、その結論で「ゲームが危険」と単純にアピールした場合、そこには「グランドセフトオート」も「ことばのパズルもじぴったん」も「どこでもいっしょ」も違いはない。例えばスプラッタ映画マニアが事件を起こしたとして(スプラッタ映画ファンには非常に申し訳ないが、例えなので堪忍してほしい)、その時に純愛映画も宮崎アニメも一緒くたにして「映画は危険」などという浅はかな説が大衆に受け入れられるはずがない。単純に「ゲームが悪影響を与える」とアピールするのはそういうことではないのか。
 様々なゲームの中のどんな要素が悪影響を与えうるのか、そこを調べてる人が(多分)いるのだから、メディアはそれを正確に伝えるべきだと思うし、まだ正確でないのなら騒ぐべきでないのがスジではなかろうか。ここをしっかりしないと、メディアに扱われるこの類の話が詭弁の域を出ることはないように思う。

 とはいえ営利主義のマスコミにそれは期待できまい。多くの人々は「理解できないゲームというモノが動機」となれば納得し、安心を得るのだから。僕も奈良県の幼女誘拐で「理解できない嗜好のせい」として安心を得たフシがあるから、それは理解できる。ペドフィリアは純粋に犯罪なので単純にゲームと比較してはいけないが、多くの人にとって理解できないものということで例に出させていただいた。

 そういう点で、NHKは比較的おとなしい報道をするので、昔から個人的に好印象である。受信料はしっかり払うからとっとと不祥事をキレイに片付けてほしい。
 以上、真面目な日記終わり。次回は不真面目な日記にしてバランスを取ります。