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◆不定期日記ログ◆

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■2012-09-03
キラキラネームの実態
 縁あって小学校低学年の文集を見る機会があった。
 現場の先生から聞いてはいたが、やはり子どもの名前がスゴい。
 キラキラネームの話題では、ピカチュウ君とか極端なのばかりが挙がるが、そういうふざけたのじゃなくて、普通の名前がもう読めないレベル。わりと広域な文集なので、特に偏差値の低い地域とかそういうことはまったくない。

 試しに「こりゃ読めないだろ」と思ったのをメモしていったら3/4は読めなかった。
 おそらくコレに慣れている現場の先生はもうちょっと読めるのだろう。恐ろしいことだ。
 だが一つ一つ答え合わせをしていくうちに、8割方は読めるようになってきた。
 たとえば「夢渚(ゆな)」のように、「夢」の「ユ」だけを読ませたり、「渚」の「な」だけを読ませたりするのは常道。あまりにこの読み方がまかり通るので、俺はこれを「万葉仮名方式」と名付けて雅な風習だと思うことにした。

 だが肝心の読みが名前っぽくない感じだと、もうお手上げ。
 語感原理主義者にとっては、音の響きが名前っぽいかどうかは死活問題。
 あのん、じゅんき、はの、ゆれん、えれ、しゅな、かじゅ……こうなると運ゲーである。
 らいあちゃんはすくすく育っているだろうか?


 考えてみれば、日本人の名前が読めないのは別に今始まったことじゃあない。「和子(かずこ)」の「和」だって、「足し算の答え→数→かず」みたいな非常にキラキラした経緯を経ているわけで、いわゆる名乗り字についてはいまさら歯止めがきかないところまで来ている感がある。わざわざが書かずとも、日本最古のブログ「徒然草」の第百十六段ですでに「名前をつけるときに珍しさを追求して小細工するのは薄っぺらいやつのすること」と苦言を呈されているレベル。
 三国志の呉の三代皇帝・孫休は、息子に命名するために新しい漢字を作り出したというので、まだまだこの程度のキラキラ具合では漢字の元祖である中国にはかなわないな、と思った。


 こういうのをネタにすると「愛や思い入れの詰まった名前をネタにするのは失礼」というツッコミが必ず入るが、名前は社会的なもの。ネタでもなんでも問題提起していかないと、そのうち笑いは怒りへ、規制へと変わってしまう。一度規制されてしまったら、愛や思い入れではもうその自由を取り戻すことはできない。
 個人的には「好きなように命名しなさい。ただし読み方は俺が決める」という価値観が社会全体に根付けばよいなと思っている。


 最後に余談だが、「稀雪輝(きせき)」くんという名前を見て感動した。
 これが雪が降ったときの正しい静岡人のテンションである。
 静岡市街地に雪が輝くのはそれほど稀なこと、まさに奇跡なのである。
 万が一、将来本人がエゴサーチしてここにたどりついたら、親御さんにグッジョブと伝えてくれ、稀雪輝くん!
 
■2012-06-04
高齢者の文章
 以前の日記から引き続き、高齢者の文章を読んで気付いたこと。


■失われつつある日本語が生きている
 たとえば「こだわり」を悪い意味で使っている文章を見るとハッとさせられる。
 「拘る」という字面は決して良い物ではない。もともとは「こだわり」は面倒なモノだったんだろう。
 また、「募金に応じる」とちゃんと書いている人もいた。
 募金は「金を募る」のだから、お金を入れる側は募金はしていない。
 僕らが当たり前のように使っている言葉が誤用だった時代があった、と感じた。

■国語的に正しくない文を書く人が意外にも多い
 時代による日本語の変化とかではなく、小学校2年生レベルのミスが多々あったので驚いた。
 たとえば主述のねじれ(例:僕の夢は、パイロットになりたいです)や文章のねじれ、てにをはの誤りなど。
 定年退職する前は職場で報告文なども作っていたであろう人々が、このようなミスをするとは考えにくい。年をとるとメタ認知能力が低下して、推敲しても客観的に読めなくなるのかもしれない。怖い。

■句読点の位置を気にしない
 「、」も「。」もつけずに、原稿用紙にズラーっと文章を続けていく人が多い。
 ようやく読点が出てきたと思ったら、「80歳を過ぎ足腰が思うように動かず何事も、大変になりました」みたいな感じで、「そこじゃないでしょ!」と言いたくなる位置に打ってあったりする。
 そもそも句読点というシステムが日本語に根付いたのはいつ頃なのだろう?
 少なくとも公用文で使われるようになったのは戦後のようだ。いまだに賞状には句読点をつけないし、高齢者が句読点を使わない理由は単純に「そういう時代に育った」というだけだろう。

■送り仮名も気にしない
 これも「そういう時代に育った」というだけだろうし、今も一部に影響を引きずっている。
 「おわる」が「終わる」か「終る」かが決まったのはつい最近のことだろうし、それだって「おこなった」と「いった」の区別すらつかない不完全なモノだ。
 「くらす」については「暮す」と書いているお年寄りが圧倒的に多数だった。
 くらします・くらさない・くらす……と活用する上ではとりあえず不自由はないからだろう。
 送り仮名は、日本語が文字を借用する課程で使った裏ワザのようなもの。なかなか統一はできないものだ。

■単語の途中で改行したがらない
 これはたぶん、わりと筆まめな人というか、手紙をよくやりとりする人だと思う。
 原稿用紙とか、ワープロとか、「一行の文字数が決められてるフォーム」に慣れていない人は、単語の途中で改行することに抵抗があるっぽい。
 そりゃあそうだ。手書きだったらちょっとアキを調整すれば、文節のキリのいいとこで改行できるんだから。
 前述のように句読点はつかわず、アキの幅と改行位置で文章の区切りを表現するのが古来の日本語なのだろう。
 改行は、web上では紙上より明らかに多用されている。今後の日本語のありかたを変えていくに違いない。


 ……若さが吸い取られるとか言っちゃったけど、意外にも勉強になってます。
 
■2011-12-21
ロワイヤル
 2年前、登山用の上着であるヤッケについて調べたことがあった。
 これはもともと「ウィンド(英語)ヤッケ(独語)」というなんとも強引な単語で、そのうち「ヤッケ」の部分だけが浸透し、やがてめったに使われなくなった。

 最近「ロワイヤル」にこれと同じ匂いを感じている。
 そもそも「バトルロイヤル」が後半部分だけフランス読みで「バトルロワイアル」という作品名で広まってしまったのが間違いの始まりなのだ。
 この聞き慣れない「ロワイアル」という言葉が小説のイメージを一手に吸収して「バトル」を取り込んだ結果、今では各種ソーシャルゲームにおいて「ロワイヤル」単体でバトルロイアルを意味するようになってしまっている。
 フランス人が聞いたらどんな反応を示すのだろうか。

 これがヤッケと同様に、浸透しきったら消滅してしまうかどうか……
 どうもソーシャルゲーの勢いと一蓮托生のような気がしている。
 
■2011-12-19
チェキ
 ふと「ジャッキ」って何語だ?と思った。
 クルマとかを持ち上げたりするアレのことである。

 辞書で調べると「Jack」という驚愕のスペルが明らかになった。
 ジャックじゃないか!
 いったい最後の「i」はどこから来たんだよ!

 すごい違和感を覚えたが、よく考えたらcakeもケーキだし、steakもステーキだ。
 専門用語のみならず、こんなに身近な単語に隠されていたなんて……
 ショッキを受けた。
 
■2011-11-22
この中にシナモンがいる
 シナモンとニッキが同じ物であることを今知った。
 言われてみればそうだが、生八つ橋がシナモン味だなんて思ったこともなかった。
 
 どうやら古くに日本に伝わったのがニッキで、舶来品がシナモンらしい。
 この2つは微妙に違う木からつくられていて、支那肉桂(シナニッケイ)からつくられたのがニッキなんだとか。
 こりゃダブルで紛らわしい。

 せめて中国から渡ってきたのがシナニッケイ略して支那物(シナモン)、ならわかりやすかった。
 さらに舶来品のほうは売り出したニックさんの名前がなまってニッキ、ならありがたかった。
 紛らわしいことには違いないが、今日みた八つ橋のお菓子には「シナモンパウダー」と書かれていたので、徐々にニッキは消滅していくのだろう。
 寂しいが紛らわしいので仕方ない。
 
 ぎゅうひって、響きも字面も最悪なのに、なんであんなに美味いんだろう。

 まず「ギュウヒ」という音が最悪だ。
 三国志に出てきたら、間違いなく関羽に一撃で倒される程度の端役だ。
 次に表記がよくない。
 今は「求肥」とされているものの、もとは「牛皮」とか「牛肥」とか書いたらしい。
 牛の肥!どうあっても食べ物にあてる漢字じゃあないだろう。

 以上、どう考えてもザコ敵ないしは嫌われ者であろう、ぎゅうひ。
 なのに下馬評をひっくり返す美味さ。語感への反乱。
 あんみつから雪見だいふくまで、あらゆるモチモチ感を演出するスーパースターではないか。

 駅で見かけるとつい買ってしまうボンタンアメの本体もぎゅうひだと聞いた。
 語感原理主義者ではあるが、ぎゅうひの前では教義も無効である。
 恐れ入った。
 
■2011-11-04
攻城戦
 カステラの語源は、スペインのカスティーリャ王国。
 カスティーリャの語源は、スペイン語のCastillo、すなわち「城」。
 つまりカステラの語源の語源は城。

 圧倒的な甘さで目の前に立ちふさがる一本そのままのカステラをどう食べたものか、それを考えたら絶望的な気持ちになってきた。
 
■2011-10-17
すべてがFになる その2
 近いうち、ケータイ売場にはスマートフォンらくらくホンしか無くなるんじゃないだろうか……。
 そんなことをドコモショップで考えた。

 もしそんな時代が来たら大変なことになる。
 「スマートフォン」と「らくらくホン」が並ぶのだ。
 すなわち「Phone」を「フォン」と書くか「ホン」と書くかの戦争である。

 以前の日記で「フォ」が「ホ」になる例はあまり見ない、と書いたけど、思いっきりこの問題がぶつかっていたんだな。
 イタリアに行ったときに気づいたけど、「フォ」を「Pho」と書く米英人もたいがいだな。なまじ「ho」が含まれていることが一時「ホン」に主導権を奪われる元凶となったのに違いない。 これはなんとしてでも「フォン」派を推し立てて戦わねばなるまい。


 相手がらくらくホンなだけに世代間戦争になると思われるが、若い人の間でもスマートフォンを略して「スマホ」というのが定着しつつあるので油断はできない。
 一部「スマフォ」という表記を見かけるようになったので、今後はこれを使用することで一致団結をはかりたい。


 話は変わるけれど、スマートフォンの話をしているのに「アイフォーン」という表記をする奴は一体何なんだ。
 調べてみると「アイホン株式会社」との関係でこうなったらしいが、「ホン」と「フォン」は同一で「フォーン」は別、という理屈もよくわからない。これから「ホン」世代と戦おうというときに余計な統一事項を増やさないで頂きたい。
 
■2011-07-21
土用の丑
 土用の丑の日なので、焼肉屋でスゴイいっぱい牛を食べた。
 もう内臓までじっくり牛を食べ尽くした。
 うおォン、俺はまるで人間火力発電所だ。
 この得たエネルギーで夏を乗り越えてやる。

 平賀源内は牛を食べたことがなかったんだろう。
 あったなら、ストレートに牛を食べる日にしていたはずだ。
 僕らは文明開化したのだから、こっちに移行してもいいころだ。
 
■2011-06-16
キレイ×キレイ
 最近「キレキレ」という言葉を、ブログやテレビで目にするようになった。
 おおむね「絶好調」と同義のようだ。

 ここ数年「キレる奴」と言えば近づきたくない奴ナンバーワンだった。
 そんな「キレる」がまた褒め言葉として復権しつつあるというのか。
 こういうのは珍しい例じゃあないかと思う。

 「凄惨な」の「凄」は、だんだん「スゴイ」という褒め言葉に変化した。
 「ヤバイ」も同じ道をたどりつつあるが、まだとらえ方に差がある。
 「こだわり」はもう「拘る」という字面からしてマイナスだ。
 「~すぎる」も本来は「過ぎたるは及ばざるがごとし」みたいなニュアンスだったハズだ。でも海賊戦隊ゴーカイジャーの悪役「ワルズギル様」はなんか「悪すぎて逆に可愛い」みたいなレベルになっているので、本来の用途を思い起こさせてくれる。

 言葉の価値が逆転してしまう現象は多々あるが、この短期間で再逆転できるだろうか。
 「キレキレ」はその用途を見る限り、発祥はスポーツニュースか何かだろう。
 キレる奴の復権のため、是非頑張って欲しい。
 
■2010-12-24
鬼スマイル
 「来年のことを言うと鬼が笑う」という言葉が不思議だ。
 笑われる相手として、なぜ恐ろしいオーガを設定したのか?
 笑いそうにない怖いやつが笑った!という趣旨ではなかろう。
 鬼を出すなら「来年のことを言うと鬼が猛る」くらいでないとそぐわない。

 しかし「猛る」では、元の「嘲笑される悔しさ」が足りない。
 「来年のことを言うと鬼が理不尽にキレる」にすれば、
 もっと凶暴性も出るし、よいと思う。

 いっそ「来年のことを言うと鬼がライコネン(F1レーサー)の話をしてくる」とかだとウザさ100倍で効果的だ。
 意外とモータースポーツに詳しいのだ、鬼は。


 ここまできて「鬼のほうを変えればいいのでは」と思い当たったが、
 「来年のことを言うと日本人形が笑う」とか超こわいのでやめた。
 
■2010-12-23
間違い間違えて生きるのさ
 ととのう → ととのえる

 文法的には「自動詞→他動詞」の変換だが、細かいことはいい。
 他にもこういう変換ができる言葉はたくさんある。

 かなう → かなえる

 したがう → したがえる

 まちがう → まちがえる

 ……なんか「まちがえる」だけおかしくないか?
 「整う」のと「整える」のとでは、主語が違う。
 「叶う」と「叶える」なども、同じ理由で、使える文脈が違う。
 だが「間違う」だけは「間違える」と入れ替えることができる。


 一部の動詞は、そのまま名詞化することができる。
 「考える」とは、「考え」を出している状態だ。
 「構える」とは、「構え」の姿勢をとっている状態だ。

 ならば「間違える」とは、「間違え」を犯した状態であるべきなのに、
 実際は「間違え」ではなく「間違い」が使われる。
 これだと元の動詞が「待ちガイル」になってしまいかねない。


 なぜ「間違う」「間違える」だけ、こんな不思議な扱いなのか。
 俺たちはひょっとして、間違えるという言葉の使い方を、どっかで間違えて生きてきたんじゃないだろうか? 
 「間違った日本語」という場合は「間違えた日本語」とは言わないので、このあたりに本来の使い分けの名残があるような気がする。

 個人的には「さまよう人」と「さまよえる人」の関係であってほしい。
 全ての間違える人々よ……われ言葉を間違えり。
 その間違えし言葉を改めるのだ。
 
■2010-12-13
電化→家電
 電化製品、という言葉を我々はアタリマエのように使うけど、よく考えたらおかしい。
 電「化」だぞ、「電気にしました」ってことじゃあないか。

 手元の広辞苑で「電化」を調べると「熱・光・動力などを、電力を用いてまかなうようにしたもの」とある。
 つまり、電気洗濯機や電気冷蔵庫など、もともと人力や氷でがんばっていたものを電気で動くようにしたものが「電化製品」なのであって、テレビやクーラーなど、もともと電気で動かすしかないものを「電化製品」というのはおかしいではないか。


 電化製品という言葉が使われはじめたのは、戦後、これらが「三種の神器」と呼ばれ羨望の的になったころだろう。
 三種の神器はテレビ・冷蔵庫・洗濯機である。すでにテレビが「電化」ではない。
 だがwikipediaによると、三種の神器は最初、テレビの代わりに電気釜が入っていたらしい。これは立派な電化製品である。
 電化製品という言葉は、生まれた直後に死語となっていたのだ。


 では、あれらを総称して何と言えばいいのか。
 最近は「家電」という言葉のほうがメジャーになっている感があるが、これも「家庭用電化製品」の略……
 ……ではなかった。
 広辞苑が言うには「家庭用電気器具」の略らしい。
 なので「家電」はセーフである。

 電化製品たちが電化する前の姿を知らない我々にとって、電化製品と呼べるのはもはやIHクッキングヒーターくらいだ。
 そろそろ「電化製品」を完全終了し、「家電」に移行するという意識を持つべきときであろう。
 
■2010-08-04
生ゴミコンポ
 実家に、生ゴミをためて、堆肥にかえるための装置がある。
 機械式のものではなく、畑に半分うまってるポリ容器だ。

 あれを我々は「コンポスト」と呼んでいたが、
 実はcompostとは「堆肥」のことである、ということがわかった。
 あの容器は「コンポスター」が正しい。

 なんという事だ。
 フランケンシュタインの怪物や、アメリカでのニンテンドーのように、創造物が創造主の名前で呼ばれることは多々ある。
 味の素やフマキラーのように、創造物の普及によって創造主が同じ名前に改名することもある。

 だがこの例は違う。
 我々はこの創造物(堆肥)が「コンポスト」だと認識していないのに、創造主を「コンポスト」と呼んでいるのだ。
 これは「俺」を「うんこ」と呼ぶくらい不自然なことだ。
 どうしてこうなった!?

 語感原理主義の立場から考えると、これは「ポスト」の語感によるものだろう。
 生ゴミを投入するポスト、というイメージに引っ張られている。
 やはりポスターではいけない。
 かわいそうなことだが、なにか画期的な別名が出ない限り、あれがコンポスターになることはあるまい。
 
■2010-07-23
となりの重里
 映画『となりのトトロ』は、昭和30年代初頭という時代設定らしい。
 東京タワーができたころだろうか。 

 現在は2010年。当時小学6年生だったサツキさんやカンタさんは、どこかで還暦を迎えているのです。たぶん。
 そう認識して観たら、すごい無常を感じた。

 ……どうでもいいことだけど、終戦直後の時代に、自分の娘に「皐月」「May」と名付ける両親って、すごいセンスだ。
 大学教授だけあって知識人だったんだな。
 
■2010-07-01
ベッドとベット
 ニトリにベッドを見に行ったとき、「ベッド」と「ベット」の表記が混在していたのが気になった。
 お値段以上に気になった。
 いまさら「ベット」という表記を責めるつもりはないが、せめて統一してくれ。

 以前の日記でも触れたが、我々日本人が許容できる発音は随分増えた。
 かつては「ッ」のあとに濁音が来るような単語は受け入れにくかったのだろう。その結果生まれたのが「ソファーベット」であり「ビックチャンス」であり「エコバック」なのだ。
 すでに外来語として定着しているのでまあいいかと思うが、やはり古い表記だなという印象はぬぐえない。

 しかし我々はそれを笑えるだろうか?
 たとえばエッグやレッグ、ヘッドやレッドなどは迷わず濁点がつけられる。
 だが「シンドバッド」は?「テトラポッド」は?「ロビンフッド」は?「キューピッド」は?
 濁点つきの表記が正しいと自信を持って言えるだろうか?
 外来語の最後が濁るかどうかは発音上も聞き取りにくいことが多く、綴りを意識しない限り混同は避けられない。

 ここでふと心配になった。
 我々が宛名シールなどに使っている、プリンタ用ラベル「タックシール」。あれは本当に「タック」でいいのか?
 タックには「仮どめ」などの意味があり、シールとしては間違っていないような気がするが、宛名を示すのが主な目的なのだから「タグ・シール」だったのではないのか?
 アレを海外では何と呼んでいるのかわからないので何とも言えないが、さらっと言ったら騙せそうなくらいの説得力はある。


 これらの表記が廃れ、濁点つきの表記に統一されていく中で、巻き添えをくう連中が出るのではないかと心配している。
 濁点抜きを駆逐したいあまり、「人間ドッグ」などと口走ってしまうのは避けたい。
 ウォッカの悲劇が繰り返されないことを祈るばかりである。

 ともあれ、現状、この混同が生活に支障をきたすような例は、「ティーバッグ」のつもりで「Tバック」と連呼してしまうハレンチマダムが増えていることくらいだろう。
 たとえ英語的におかしくても「ティーパック(Tea pack)」という呼び方を採用し、差別化することをオススメする。