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◆不定期日記ログ◆

LOG 2006-09

■2006-09-06
ベルばらについて本気出して考えてみた
 いまさら『ベルサイユのばら』について本気出して考えてみた。
 フランス旅行のために読んだようなもんだけど、こいつは名作だと思う。

 僕が名作だと思う点は…
 個人的にもっとも名作だと思う点は!
 男装の麗人オスカルを主役に据えたところでもなく、オスカルとその従者アンドレの身分違いの愛や、アントワネットと留学生フェルゼン伯との悲恋を描いた部分でもない。
 創作と史実とが渾然一体となったこの作品を名作たらしめているのは、パリの町娘ロザリーの存在なのだと思う。

 『ベルばら』初期は、フランス宮廷に嫁いで来たアントワネットを中心に話が展開する。
 主に宮廷での権力がどんなふうに変わっていったのか、女たちの戦いが繰り広げられ語られるが、この部分にはなんというか、あまり魅力を感じない。
 とにかくドレス!とにかくリボン!に魅力を感じる当時の読者ならそんなことはないのだろうが、当方はフランス宮廷というあきらかな異世界を簡単に受け入れられない成人男性である。当然だろう。
 そんな中、作者により、こっそりとこの世界にロザリーは仕込まれる。

 ロザリーはかなり早い段階から作品に登場するが、それはパリの貧しい平民の生活を活写するためのキャラにすぎなかった。
 そのためざっと読むと記憶にもあまり残らない。
 彼女の冒険は、母が死の間際に「あなたは本当は貴族の~」的な告白をされたときから始まる。
 ここでようやく、このフランス宮廷の世界で読者にもっとも近い視点が入り込むわけだ。

 だがそればかりではなく、ロザリーは冒険が始まるまえにいくつかのフラグ(姉の失踪・母の仇)を立てており、そのフラグがフランス革命に向かうのに必要な大事件――首飾り事件とポリニャック伯夫人の台頭――の部分を読みすすめるにあたって、非常に有効に働いている。
 事件の渦中にいた実在人物とロザリーとが密接な関係になっているため、読者は読者にもっとも近い視点からこの事件を読むことができ、それが序盤のような異世界感や退屈をとりはらってくれるのだ。
 ただのぶりっこじゃないんだよ。
 オスカル様にくっついてるだけじゃないんだよ。
 まるで幾何の問題で一本の補助線を引くかのように、たった一人のオリジナルキャラクターにより、史実を見事に創作の側へ引き入れているんだよ。

 ロザリーは最後、処刑を待つアントワネットの身の回りの世話をするようになるが、Wikipediaによると、実際にコンシェルジュリーでアントワネットの世話をしたロザリー・ラ・モリエールという女中がいたらしい。
 もちろん『ベルばら』のロザリーは架空のキャラだが、作者は最後のこの役回りからさかのぼって、一巻の初めに彼女を置いたということだろうか。もしそうならあまりにも計算されつくした補助線ではないか。


 本気出して考えてしまったが、やっぱりアレだよね、真面目でない考察も要るよね。
 あと漫画に必要なのってなんか燃えとか萌えだよね。

 一番の燃えシーンは、オスカル様がいつまでも反抗的な態度をとる部下たちをひっぱたき、「心の自由」を叫び、「殴って…すまなかった…私は衛兵隊を辞めよう」と言い、部下たちが「やめないで下さい隊長!」「隊長!」「お願いです!」とかけよるところ。
 おれは少女漫画を読んでいたと思ったら、いつのまにか熱血青春漫画を読んでいた…
 テンプレートだとか神展開だとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
 もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 ちなみに萌えシーンは、アンドレがパレ・ロワイヤルにオスカル様を助けに行くところで、「証拠もないのにふみこんだら逮捕されるのがオチだが、この変装なら入れるかもしれない、50パーセントに賭けるしかないな」と真顔で言うところ。
 オマエそれ50パーセントって言わねぇよ!
 算術のできないアンドレ萌え。
 
■2006-09-07
皇室マジック
 雅子さま・愛子さま・紀子さま・眞子さま・佳子さま…って並ぶと、
 思わず皇太子さますらコウタイコサマと読んでしまう。
 それが不思議な皇室マジック。
 
■2006-09-08
俳人マジック
 高浜虚子きょし・山口誓子せいし・水原秋桜子しゅうおうし・三橋光波子こうはし…って並ぶと、
 思わず与謝野晶子すらショウシと読んでしまう。
 それが不思議な俳人(歌人)マジック。

 …いや、さすがにそれはない。
 
■2006-09-10
ニセ方言
 方言の話をしていて、
 「かさばる」のことを「がさばる」と言うのは方言か?
 という話題になった。

 「なんか、がさばるのほうが、かさばるよりもかさがありそう」
 「比較級?」
 「じゃあ最上級もあるの?」

 「…ガザバル?」

 それはもう方言じゃなくてドラクエの呪文か何かじゃないのか。
 あるいは中東の地名。
 バグダッドみたいな。
 
■2006-09-13
腋あいあい
 「和気あいあい」は「和気藹々」と書き、
 「藹」という字は「もや」と同義なんだそうだ。

 和気もやもや…
 なごやかだった空気がとたんに釈然としない感じになった。

 ワキもやもや、にするとさらに悪臭も漂い始めた感じになった。
 
■2006-09-18
憧れにうながされ
 iTunesストアでお買い物してみたよ!!

 環境の変化により、いつも隣にTSUTAYAがあった時代が終わってしまい、僕はここ半年間ぜんぜん音楽に手をつけていなかった。
 カラオケに行く回数が減ったからなんとかなっているものの、僕にとってレンタルCDは新しいネタ音楽との出会いの場なのだ。この事態をなんとかしなければいけない。
 黒船ミシシッピ号に新しい音楽の荷物を積み込んでやらなければ。
 そこでiTunesストアに目をつけたのだ。

 一曲150円とか200円。
 アルバム単位で買うとレンタルより断然高くなるが、CDを買うほどじゃない、アルバムごと借りるほどじゃない、っていう一曲をざくざく探し出すのが僕に合った使いかただろう。
 コンビニで余裕をもって3000円分のMusic Cardを買ってきた。
 さあガシガシ検索して買うぜ!!
  • うなぎのじゅもん(うなぎパイのテーマ)
  • 魅せられて(ジュディ・オング)
  • 惚れたぜHarajuku(アルファ&スチャダラパー)
  • 男の世界(マンダム)
  • ゴッドファーザーのテーマ(スカパラのやつ)
  • ルパン三世のテーマ(クリスタルキングのやつ)
  • いい日旅立ち(鬼束ちひろのほう)
  • Dan Dan 心惹かれてく(ZARDのほう)
  • 秋桜(宮地真緒)
  • 逆・関白宣言(沢 知恵)
  • ジンギスカンともすかう
 やっぱネタ
 これで「秋桜」は、さだまさし、福山雅治、徳永英明、宮地真緒の4曲が揃ったよ!
 どうするつもりだ!?
 
■2006-09-20
変態チャンピオン
 「すったもんだ」…?

 何をだ!?このスケベ野郎!!
 
■2006-09-24
ややこしいです
 
 女の子が7人います。男の子は女の子より3人少ないです。
 男の子は何人いるでしょう。


 仕事で「『少ないです』という言い方は間違っている」という指摘があった。

 「形容詞の言い切り」と「です」。間違った日本語なのか?
 「北海道は寒いです」はダメなのか?
 「今日は富士山が美しいです」はダメなのか?
 確かに、である調に直したときに「寒いだ」とか「美しいだ」とは言わない!

 確認したが、国語教科書の文法事項には記載されていない。
 だがたしかに教科書はこの言い回しを徹底的に避けているように見える。
 一部の参考書には「形容詞に接続する」と書いてあるが、用例はわざわざ省略されていた。

 これが間違っているとして、「3人少ない」という言い方を、どうやってですます調にすればいいんだ!?
 「3人少ないのです」か?
 まさかアレか!?「3人少のうございます」まで言わないといかんのか!?

 教科書会社に問い合わせてみたいが、
 「形容詞+ですは日本語として正しいで…正しゅうございますか?」
 「ええ、正しいです」
 みたいな結果になるのもイヤだ。



 いろいろ調べまわった結果、「形容詞+です」は、以前は間違いとされていた日本語で、現在は許容されているという結論に達した。
 逃げ続けてきた教科書も、ガマンできずにいくつかこの言い回しを使っており、この問題は修正をしないこととなった。
 言語は常に変化している。日本語はとても難しいです。
 
■2006-09-30
「ぜんぜん」の用法
 「ぜんぜん面白かった」のように、「ぜんぜん」の後に肯定の形が来るのは間違った日本語である、という主張はだいぶ前からされている。僕も国語の時間に教え込まれた。
 今は「くだけた表現の一部」として扱われ、だいぶ寛容なようだが、やはりテストで書いたら得点はないだろう。

 ここで、夏目漱石など近代文学の例を挙げて、かつて「漸々」は「すっかり」とか「全面的に」というような意味で肯定の文脈でも使われていた、と主張することもできる。
 しかし、それは「否定形を伴って使うのは歴史的に見てもあたりまえ」という主張を退けるにすぎない。
 そもそも、今使われている「ぜんぜん面白かった」と、かつて使われていた「漸々」とは、意味がぜんぜん違うような感じがするのである。

 いまわざと「ぜんぜん違う」と言ったが、否定形を伴うのが原則であるのなら、「ぜんぜん同じでない」とすべきである。
 しかし「ぜんぜん違う」「ぜんぜんダメだ」という言い方は比較的問題にされていないように思う。
 形は否定形ではないが、文脈が否定であるからだ。

 ここで冒頭の「ぜんぜん面白かった」に考えが戻るわけだが、我々がこの言葉を使うのはどんな場面であろうか。

 「ゲド戦記どうだった?」
 「ぜんぜん面白かったよ」

 文面だけでみると、「ぜんぜん」に肯定の形がくるのは違和感があるのかもしれない。
 だが、実際のところだいたいにおいてこれは、

 「ゲド戦記どうだった?(アタシの言ったとおりスッゲ面白くなかったでしょー?)」
 「(貴殿はあたかも拙者が貴殿と似かよったセンスを所持していることを予期しているかのような態度をとっているが残念ながら)ぜんぜん(そのような事はないのである。)面白かったよ」

 という意味合いでなされている会話なのである。
 文の形としては肯定であるが、その意味は否定なのだ。

 つまり、「ぜんぜん」に伴っているのは形ではなく意味としての否定なのであり、自分は「否定形であるべき」という考えにも、「明治時代のような総合的な使い方に戻っているだけ」という考え方にも同調しないことにした。
 今後「ぜんぜん」の扱いは俗用から慣用へ移り、市民権を得ていくのではないか。
 もし未だにこの問題を取り上げている文章があったら、こういう観点からも見てみようと思う。

 いや、今回は(オチなんて用意されてなくて)ぜんぜん(ネタが入っていない)真面目な日記だよ。(だってオチを考えてたら一週間たっちゃいそうだったんだもん。)