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◆不定期日記ログ◆

LOG 2010-08

■2010-08-04
生ゴミコンポ
 実家に、生ゴミをためて、堆肥にかえるための装置がある。
 機械式のものではなく、畑に半分うまってるポリ容器だ。

 あれを我々は「コンポスト」と呼んでいたが、
 実はcompostとは「堆肥」のことである、ということがわかった。
 あの容器は「コンポスター」が正しい。

 なんという事だ。
 フランケンシュタインの怪物や、アメリカでのニンテンドーのように、創造物が創造主の名前で呼ばれることは多々ある。
 味の素やフマキラーのように、創造物の普及によって創造主が同じ名前に改名することもある。

 だがこの例は違う。
 我々はこの創造物(堆肥)が「コンポスト」だと認識していないのに、創造主を「コンポスト」と呼んでいるのだ。
 これは「俺」を「うんこ」と呼ぶくらい不自然なことだ。
 どうしてこうなった!?

 語感原理主義の立場から考えると、これは「ポスト」の語感によるものだろう。
 生ゴミを投入するポスト、というイメージに引っ張られている。
 やはりポスターではいけない。
 かわいそうなことだが、なにか画期的な別名が出ない限り、あれがコンポスターになることはあるまい。
 
■2010-08-05
アリエッティの話
 そろそろ空いてきた頃かと思ったので、『借りぐらしのアリエッティ』観てきた。
 平日とはいえ世間は夏休みなんだから油断ならない、と警戒していたが余裕でチケット取れたぜ。


 アリエッティの一族は、小人である。
 だいたい親指姫と同じくらいのスケールだと思われる。
 当然、このスケールだと我々にとってアタリマエの世界が、まったく違って見えてくる。

 作中、なにより斬新に描かれていたのは、水の粘性だった。
 お茶もスープもどうやってつくっているのか不思議なくらいすごい表面張力を見せており、当然涙の一滴も巨大な水滴として現れる。
 泣くとこぶし大の涙がボロボロでるので脱水死の危険と隣り合わせである。
 お風呂の描写はなかったが、無事に入浴できてるんだろうか?

 風や空気の違いは「音の違い」として表現されていた。
 だが、小さいがゆえの身体能力(跳躍力とか)の違いについては特に強調されていなかったのは残念だった。
 アレならパズーさんやサツキさんのほうが優れているだろう。
 登場する人間が総じて緩慢なので、対比のしようがなかったのかもしれない。


 ここのところ、ジブリ映画は「○○の話」とざっくり三行でまとめることが難しい、複雑性のある作品が増えたと思う。
 そんな中、今作は久しぶりに気楽に観られる作品だった。
 独断でざっくりまとめると「後ろ向きな少年が、小人との出会いを通じて、生きる意欲を取り戻す話」である。
 断じて「老婆は3人の不思議な小人族を執念深く追う」ではない。
 注意されたし。
 
■2010-08-11
涙の乗車券
 先週から、頻繁に右足の親指をぶつける。
 気付いたらささくれのような傷口ができていて、膿んでいた。
 おととい、机の角に親指をぶつけ、ついに出血した。
 痛いので絆創膏を貼っているが、そこをさらにぶつけて奇声を上げている。 
 そのうち、親指をぶつけて転倒し、頭を打って死亡するのかもしれない。
 冬のナマズのようにおとなしく生活するしかない。
 
■2010-08-15
なつやすみ
男女4人で潮風の吹く夜道をアイスを食いながら歩いた。
自分のリア充ぶりに気づき体がばくはつしそうになった。
 
■2010-08-21
出世街道邁進中
ぼく「あ、ボス、なんですか話って」
ボス「さっき心理テストの話になったんだが」
ぼく「はあ、どんな」
ボス「”あなたは牛・虎・馬・羊・猿をつれて砂漠を旅しています。
    途中で道に迷い、一匹ずつ動物を捨てなければならなくなりました。
    どの動物を最初に手放しますか”……っていう奴だ」
ぼく「猿ですかね」
ボス「なぜ」
ぼく「サルものは追わず……ってね」
ボス「……」
ぼく「(ドヤ顔)」
ボス「猿は、『配偶者・恋人』の暗示だそうだ」
ぼく「えっ」
ボス「……大丈夫、ビッグボスも猿を選んだ」
 
■2010-08-23
処暑の奇妙な冒険
第一部 ファントムフラット

「ティオ・フラントーだね?」
「そういう君はショナサン・ショースター」


第二部 戦闘潮流

「シーサァァー!!!」


第三部 スタータスト・クルセイタース

「正太郎!君の意見を聞こうッ!!」
 
■2010-08-26
地方空港
 日本の空港 - Wikipedia より抜粋。
  • たんちょう釧路空港〔釧路市〕
  • 富士山静岡空港〔静岡県島田市・牧之原市〕
  • コウノトリ但馬空港〔兵庫県豊岡市〕
  • 出雲縁結び空港〔島根県斐川町〕
  • 徳島阿波おどり空港〔徳島県松茂町〕
  • 米子鬼太郎空港〔鳥取県境港市・米子市〕
  • 高知龍馬空港〔高知県南国市〕
  • 対馬やまねこ空港〔長崎県対馬市〕
 なんだ、「富士山静岡空港」って別に恥ずかしい名前じゃないじゃん。
 むしろ勝ち組って感じ?
 
■2010-08-28
夏休み読書感想文
 ジャレド・ダイアモンド博士の『文明崩壊』を読了。
 現在・過去の文明の崩壊っぷりから環境問題を語る本。
 さすがに前著『銃・病原菌・鉄』には新鮮さでやや及ばないが、知的好奇心を充填してくれる大作であった。
 ハードカバー上下巻あわせて900ページ弱だが、環境問題について多面的に知りたい人は挑戦するといいよ。


 さて『銃・病原菌・鉄』と同様、この本でも、同じテーマをいくつもの違う土地でなぞる方法で論が進んでいく。
 今回、何度も出てくるのは「人間がやってきて、森を切り開き、その悪影響によって自滅した」というシナリオだ。

 我々は畑も森も同じ「緑」として認識しがちだけれど、畑というのは確実に土地を疲弊させている。
 結局のところ、農業も、土中の栄養を集めているという考え方をすれば、狩猟採集と変わらない。石油や鉱物や海洋資源と同じく、乱獲すれば枯渇する。
 また、耕した畑は風雨による侵食を受けやすい。放置されればあっというまに土壌が流出する。
 AOCプレイヤーはよくご存知だと思うが、畑を張るのには木が必要だ。
 森が食料生産を支えている。

 食料自給率を上げろ、というキャンペーンがずいぶん前から張られているが、「金を払って食料を輸入する」ということは「食料生産に関する環境負荷を、相手国に負担してもらう」という側面が意識されていない。
 もし食料自給率を高めて、日本の農業規模を倍にすれば、森林伐採をはじめとする環境負荷も倍になるだろう。


 この問題に人類はどう立ち向かうんだろう。
 第2部に、グリーンランドを発見したヴァイキングが、ヨーロッパ風の生活様式を貫き、その団結力で痩せた土地に文明を築いた話が出てくる。
 しかし、300~400年を過ごすうち、彼らは気候の寒冷化という危機に見舞われる。
 ヒツジやウシを飼うのをやめ、イヌイットに学んでアザラシを捕れば、寒冷期を越えられたかもしれないが、彼らはヨーロッパ的価値観を捨てることができずに、歴史から姿を消した。

 「不適切な条件のもとで人々が最も頑迷にこだわる価値観というものは、過去に、環境に対する最も偉大な勝利をもたらしたものでもある」とダイアモンド博士は言う。

 我々が捨てるべき価値観とは何か?
 その回答になりそうなモノはいくつか挙げられているが、個人的に気になったのはそのどれでもない。

 第2部の最後に、ティコピア島の人々の生活が、崩壊をまぬがれた例として出てくる。
 外部からの支援がない孤島では、生産できる食料は限られ、したがって支えられる人口も限られる。
 人口を抑制するため、多産は非難され、堕胎や嬰児殺が日常的に行われた。
 入水自殺も数多く記録されているという。

 ひょっとして、我々が捨てるべき価値観は、
 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」
 「子孫繁栄は人類の願い」
 という類のものじゃあないだろうか。

 ダイアモンド博士は「人口増加率は減少に転じている」と記載するにとどめたが、人間を減らさないことには、環境問題はクリアできない気がする。
 人口過密が環境ストレスを呼び、それが紛争などの政治ストレスにつながるのが文明崩壊へのシナリオだ。
 中国の一人っ子政策は成功したとは言いがたいが、今後こういう試みが世界各地で行われる日が来るかもしれない。誰だってギレン・ザビが「せっかく減った人口です」なんて言う状態にはなりたくないんだから。
 
■2010-08-30
作業机の法則
 書類を広げるには机が狭いので、もっと大きな机に移動した。
 しかし、結局そこにもいっぱいまで書類を広げてしまう。

 これを「作業机の法則」という。


 31日までにやる、という宿題が31日より前に終わらないのも、
 月3000円のお小遣いを貯金できないのも、
 本が溢れたので新しい本棚を買ったのにすぐまた溢れてしまうのも、
 パソコンの性能が100倍になってもOSの起動がトロいままなのも、
 すべてこの「作業机の法則」のせいである。

 リソースを利用するのではなく、リソースに管理されている状態。
 基本的に我々人類はメモリの管理がヘタクソなのかもしれない。


 ……あたかもそんな言葉があるように書いてみたけれど、「作業机の法則」は今日思いついた言葉だ。
 きっと、誰かがこの現象にもっと気の利いたネーミングをしてるハズなんだが、こういう検索はGoogle先生はニガテなようで、わからない。
 もし俺が最初ならこれで「さよなら絶望先生」が一話できるな。
 
■2010-08-31
夏休みという共通体験
 昨日あんな日記を投げといて何だけど、
 小学生にとって、もはや「8月31日」は夏休み最終日なんかではない。
 けっこーな割合で、既に夏休みは終了している。

 我が県内では、遅いところは7月31日まで授業があり、早いところは8月25日から授業がスタートしている。
 未だにマスコミでは「夏休み最後の日曜」とか「夏休み最終日」とか言うが、もうじきそれは聞かれなくなるだろう。

 ついでにいうと、二学期制に移行する学校も珍しくなくなってきた。
 そういう学校は、9月の連休までが1学期である。
 つまり、7月下旬に終業式をして通知表をもらって夏休み、というのは、もうぜんぜん共通体験でなくなってしまっているのだ。

 この調子で多様化が進めば、学園モノやドラえもんやサザエさんは大変になるだろう。
 すこし寂しくもある。