◆不定期日記ログ◆
- ■2020-11-04
- 鬼滅の刃 無限列車編
『鬼滅の刃 無限列車編』の興行収入に貢献してきた。
ケタ外れの興行収入を叩き出すことが明らかな作品なので、そのそびえ立つ塔のてっぺんにひとつ石を積む行為に快感が発生する仕組みだ。俺は『君の名は。』のときにそれができなかった。「俺向きじゃないから」と言って見送ったのだ。今回やってみてそれが快感を産むと知った。皆が熱狂しているなら熱いうちに乗ってみたほうが人生は楽しくなる。
とはいえ、つまり、初めに申し上げておくと、俺は鬼滅ニワカである。
めちゃ流行ってると聞いたときの俺のリアクションが「鬼滅ってあの……年号が変わっている! の鬼と、ムキムキねずみの漫画が!??」だったことからも俺のTwitterタイムラインの偏りは明らかであり、主人公が誰かさえも知らなかった。連載終了が見えたあたりから「鬼舞辻無惨」という単語が頻出するようになったが、読めなかった。
そしてコロナ休みの時期くらいに「幼稚園児にもリーチしてきているらしい」という話を聞いて、これは他人事ではいられないと悟り、この夏に単行本を15巻まで読んだ。あとアニメを最初と最後だけ観た。俺の鬼滅知識はその程度である。
そんな態度で劇場に足を運んだので、俺はまず完全にアニメ26話の続きであることをわからされることになった。始まったのは完全に「第二十七話」であり、いつ紅蓮花のOPが挟まってもおかしくなかった。
大丈夫なのか……!? この映画を観に来た3億人(推定)の人々がみんなアニメを完走していると思っているのか!? 説明が……説明が足りないのでは!? そんな心配ばかりをしていた。
しかし、それについては心配いらなかった。この「無限列車編」は比較的そのあたりのカバーがしやすい話であることを俺は徐々に思い出した。夢の中の回想で「こいつはこういう奴です」という説明ができる。単品でお出しするにはうってつけだった。
しかし、そうなると今度はこの続きのことが心配になってきた。劇場版を観ずにアニメ3期を観た人は、いきなり煉獄さんの刀の鍔を所持していることになってしまう! 今までのニチアサの記憶がソーマト・リコールめいて思い出される……。なぜか手に入れたことになっていたレンジャーキー、最終決戦に出てくる知らないロボ、いつの間にか知り合いになっていたプリキュア……。そういった劇場版スルーによって生まれたいくつもの違和感体験が、この作品でも繰り返されてしまうのか!?
……冷静に考えてみれば、そもそもこの続きがテレビアニメとして作られると決まっているわけではない。今作がこれだけの人に観られたのなら、続きも「ムキムキねずみ遊郭編」として劇場公開される可能性がある。いまや深夜アニメとして作るより、そのほうが収益モデルが立てやすいのかもしれない。門外漢なのでまったくわからないが。
以降、原作未読者のネタバレに踏み込まない範囲の感想を残しておく。とはいえ俺も16巻以降は未読なのであまり偉そうな顔はできない。はやく読まなければ。
漫画原作のアニメ映画を観るのは久しぶりだったので、やっぱり劇場の大スクリーンおよび超絶技巧作画には圧倒された。こうまで美しいと白黒のコミックスとは違う印象を感じさせてくる場面も多々出てくる。炭治郎の無意識風景などはほぼウユニ塩湖であり、あまりの解像度に「世界観大丈夫か!?」と思ってしまった。
世界の解像度が上がったことで、無限列車の仕様についても気になってしまう。冒頭で煉獄さんが駅弁を食べており、終盤で朝日が昇る。その間に列車はノンストップで走っているので、これが血鬼術の幻覚でなければ、この列車は長距離を走る夜行列車である。だが寝台などがなく、乗客はみな普通の座席に座っている。
大正時代にはこういう車両が存在したのか? と思って調べてみたが、寝台車は明治の時代からあるらしく……そうなるとこれは「鬼滅の世界ではこれが当たり前」ということなのだろう。つまりネオサイタマのシンカンセンである。
原作尊重と言えば、少年漫画らしいモノローグの多さがとても懐かしい感覚だった。この懐かしさは8年前にジョジョのアニメを観たときに感じたものだ。
ぶっちゃけこれだけ渾身の作画と声優さんの演技力があれば「煉獄さんが重傷を負ってなお一分の隙のない構えを取っていること」なんてわざわざ言わなくても見ればわかるのである。原作は漫画で、しかも少年漫画なので、これをモノローグや敵の独り言として入れているだけなのだ。そういったものを省略して、画力と演技力を叩きつけて観客にわからせることができるのがアニメなのではないか……しかしそのモノローグを入れずにはいられない! なぜなら原作にあるから!! 信頼のおける制作会社である。
そういった姿勢でつくられた劇場版アニメが邦画界のハイスコアボードに刻まれるというのは、かなり奇特な事態なのではないか。というかこの作品を男児も女児も老いも若きも観に行ってる事態がまず奇特なんだよな。映倫PG-12(小学生以下のお子様が視聴する際、保護者の助言・指導が必要)なので娘氏の視聴は心配だったけど、「れんごくが『うまい!』っていうのがおもしろかった」と言っていたので良かった。
ケタ外れの興行収入を叩き出すことが明らかな作品なので、そのそびえ立つ塔のてっぺんにひとつ石を積む行為に快感が発生する仕組みだ。俺は『君の名は。』のときにそれができなかった。「俺向きじゃないから」と言って見送ったのだ。今回やってみてそれが快感を産むと知った。皆が熱狂しているなら熱いうちに乗ってみたほうが人生は楽しくなる。
とはいえ、つまり、初めに申し上げておくと、俺は鬼滅ニワカである。
めちゃ流行ってると聞いたときの俺のリアクションが「鬼滅ってあの……年号が変わっている! の鬼と、ムキムキねずみの漫画が!??」だったことからも俺のTwitterタイムラインの偏りは明らかであり、主人公が誰かさえも知らなかった。連載終了が見えたあたりから「鬼舞辻無惨」という単語が頻出するようになったが、読めなかった。
そしてコロナ休みの時期くらいに「幼稚園児にもリーチしてきているらしい」という話を聞いて、これは他人事ではいられないと悟り、この夏に単行本を15巻まで読んだ。あとアニメを最初と最後だけ観た。俺の鬼滅知識はその程度である。
そんな態度で劇場に足を運んだので、俺はまず完全にアニメ26話の続きであることをわからされることになった。始まったのは完全に「第二十七話」であり、いつ紅蓮花のOPが挟まってもおかしくなかった。
大丈夫なのか……!? この映画を観に来た3億人(推定)の人々がみんなアニメを完走していると思っているのか!? 説明が……説明が足りないのでは!? そんな心配ばかりをしていた。
しかし、それについては心配いらなかった。この「無限列車編」は比較的そのあたりのカバーがしやすい話であることを俺は徐々に思い出した。夢の中の回想で「こいつはこういう奴です」という説明ができる。単品でお出しするにはうってつけだった。
しかし、そうなると今度はこの続きのことが心配になってきた。劇場版を観ずにアニメ3期を観た人は、いきなり煉獄さんの刀の鍔を所持していることになってしまう! 今までのニチアサの記憶がソーマト・リコールめいて思い出される……。なぜか手に入れたことになっていたレンジャーキー、最終決戦に出てくる知らないロボ、いつの間にか知り合いになっていたプリキュア……。そういった劇場版スルーによって生まれたいくつもの違和感体験が、この作品でも繰り返されてしまうのか!?
……冷静に考えてみれば、そもそもこの続きがテレビアニメとして作られると決まっているわけではない。今作がこれだけの人に観られたのなら、続きも「ムキムキねずみ遊郭編」として劇場公開される可能性がある。いまや深夜アニメとして作るより、そのほうが収益モデルが立てやすいのかもしれない。門外漢なのでまったくわからないが。
以降、原作未読者のネタバレに踏み込まない範囲の感想を残しておく。とはいえ俺も16巻以降は未読なのであまり偉そうな顔はできない。はやく読まなければ。
漫画原作のアニメ映画を観るのは久しぶりだったので、やっぱり劇場の大スクリーンおよび超絶技巧作画には圧倒された。こうまで美しいと白黒のコミックスとは違う印象を感じさせてくる場面も多々出てくる。炭治郎の無意識風景などはほぼウユニ塩湖であり、あまりの解像度に「世界観大丈夫か!?」と思ってしまった。
世界の解像度が上がったことで、無限列車の仕様についても気になってしまう。冒頭で煉獄さんが駅弁を食べており、終盤で朝日が昇る。その間に列車はノンストップで走っているので、これが血鬼術の幻覚でなければ、この列車は長距離を走る夜行列車である。だが寝台などがなく、乗客はみな普通の座席に座っている。
大正時代にはこういう車両が存在したのか? と思って調べてみたが、寝台車は明治の時代からあるらしく……そうなるとこれは「鬼滅の世界ではこれが当たり前」ということなのだろう。つまりネオサイタマのシンカンセンである。
「残りのお客様、ゲートが開きましたので、10分以内の乗車に御協力ドスエ……」無表情な電子マイコ音声が流れる。フジキドは乗車し、72号車B2番席を探した。床の升目を頼りにB2の位置を探し、その升目からはみ出さないように、天井から垂れた吊り革を握る。マケグミ・クラスに座席は無いのだ。
- NJSLYR 午後10:59 · 2011年9月4日
原作尊重と言えば、少年漫画らしいモノローグの多さがとても懐かしい感覚だった。この懐かしさは8年前にジョジョのアニメを観たときに感じたものだ。
ぶっちゃけこれだけ渾身の作画と声優さんの演技力があれば「煉獄さんが重傷を負ってなお一分の隙のない構えを取っていること」なんてわざわざ言わなくても見ればわかるのである。原作は漫画で、しかも少年漫画なので、これをモノローグや敵の独り言として入れているだけなのだ。そういったものを省略して、画力と演技力を叩きつけて観客にわからせることができるのがアニメなのではないか……しかしそのモノローグを入れずにはいられない! なぜなら原作にあるから!! 信頼のおける制作会社である。
そういった姿勢でつくられた劇場版アニメが邦画界のハイスコアボードに刻まれるというのは、かなり奇特な事態なのではないか。というかこの作品を男児も女児も老いも若きも観に行ってる事態がまず奇特なんだよな。映倫PG-12(小学生以下のお子様が視聴する際、保護者の助言・指導が必要)なので娘氏の視聴は心配だったけど、「れんごくが『うまい!』っていうのがおもしろかった」と言っていたので良かった。