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◆不定期日記ログ◆

■2024-10-18
タイムはいつからマネーになったのか
 『遅刻の誕生: 近代日本における時間意識の形成』を読みました。

 今や世界一きっちり運行していると評判の日本の鉄道ですが、もちろん日本人は最初から時間に厳しい民族だったわけではありません。明治時代にどのようにして庶民の隅々にまで時間の感覚を叩き込んでいったか、鉄道だけでなく工場や学校などの事例を紐解いていく本でした。

 そもそも江戸時代の時間は、日の出・日の入りを基準として昼と夜をそれぞれ6分割したもので、季節によってぜんぜん変わってしまう不定時法でした。というかこれはヨーロッパ諸国も同じだったと思うのですが、あいつら、緯度が高すぎるんですよね。緯度が高いと季節による昼夜の時間差がエグいので、それであいつらは定時法を編み出して黒船アタックをかけてきたのです。


 そんなわけで明治6年から24時間制の定時法が始まるわけですが、庶民はそもそも時計を持っていないわけです。そんな状態で「殖産興業すっぞ!」と言って、近代的な工場の運営が始まります。
 
 明治8年の海軍兵器局工房の例では、始業時間が7時30分なのに、労働者は6時30分に集合させられていたそうです。不定時法で暮らしていた庶民には、分単位での時間厳守は無理だったのでしょう。
 当時の工場の主な動力は蒸気ですから、石炭を焚いて蒸気パワーが充填すると同時に業務開始するのがもっとも効率良いわけで、始業時間は確実に守ってもらわなければならなかったのです。遅刻は厳しく減給され、無遅刻無欠勤を奨励するための皆勤賞などが設けられました。

 工場では、始業時間前に汽笛を鳴らすことで周辺に住む労働者に時間を知らせるようになり、始業前の謎の待機時間は減っていったそうです。明治19年くらいになると、商店とか街角に時計が増え、庶民の時間感覚がじょじょに近代化していきます。
 その後、イギリスのグリニッジ天文台を基準とする「協定世界時」が決まり、明治21年には東経135度を基準とする「日本標準時」が決まって、ここでようやく現在につながる時間が始まったというわけです。

 ところでヨーロッパ人は「南半球の国では12月が真夏」を通したのに、「ロンドンの反対側の国では23時が真昼」を通せなかったのは何でなんだぜ?

PIPI
ピピチャン キタヨ!(季節がない国はあるけど太陽が昇らない国はないからですよ)
 さすが常夏の国の鳥は見識が深いなあ。


 本の内容と離れますが、東経135度といえば兵庫県明石市。「子午線のまち」として有名です。
 しかしちょっと考えてみるとこれは変です。だって東経135度の子午線は明石市以外にも多くの町を貫いているではないですか。

 日本標準時の基準となる東経135度子午線は、明石市を含む12市を通っています。
 北から京丹後市、福知山市(以上京都府)、豊岡市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、神戸市西区、明石市、淡路市(以上兵庫県)、和歌山市(和歌山県)です。

東経135度と日本標準時 - 明石市立天文科学館
 たとえば東経135度・北緯35度の交点をもつ兵庫県西脇市は「日本のへそ」としてPRを行っていますが、さすがに教科書に載っている明石市ほどの知名度をたたき出せていません。いったいなぜ明石市が135度の恩恵を独占するに至ったのでしょう?

 たぶんまあきっと明石には天文台があるからだろ、と思って気にしないようにしていましたが、調べてみるとこれは順序が逆で、先ほどの明石市立天文科学館のwebサイトによれば、天文科学館ができたのは戦後の昭和35年でした。
 そこに至るまでには明治43年に始まる地元の校長先生や教育委員会の熱心な観測とPRがあったそうで、その結果「兵庫県明石市を通る東経135度の経線を~」という記述が自然となされるようになったのですね。先生方、頑張ったんだな……。