◆不定期日記ログ◆
- ■2019-07-31
- 好き嫌いをしないということ
実は今年度よりワイフがお弁当を作ってくれるようになり、これがもうすごく助かっている。夜の貴重な時間を使ってお弁当を詰めてくれることには感謝しかない。
なにしろカイシャで食う飯ほど面倒なものはない。正確には自分で食べるものを選ぶことが面倒で仕方ない。ここがあまりご理解頂けないので今回ご説明したい部分だ。
俺は食べ物の好き嫌いをしないことが信条で、幼少のころより出された料理は何でも美味しく食べるよう教育されてきた。給食は毎日完食していたし、日々の食事も個人の割り当て分を残すことはなかった。
しかし家を出て一人暮らしを始めた俺は困り果ててしまった。
食事は用意されるものではなく、自分で調達するものとなった。しかし、自炊もしくは弁当を購入しようにも、まず「食べたい」と思うものがない。食欲はある。腹は満たしたい。しかし積極的に食べたいと思う食べ物がない。
これは俺の周囲に劣悪な弁当屋しかないという意味でも、俺の好き嫌いが開花したという意味でもない。むしろ逆だ。何を選んでも美味しく食べることができ腹も完全に満たされるので、決断のための決定打がなく、減点法で選択することになる。
幼少より身に付けた「食べ物の好き嫌いをしない」という姿勢がこの事態を招いてしまったのだ。
あれは別に食べたくない、あれも別に食べたくない、ならば安い弁当にするか、いや最低限の野菜がないと即座に口内炎ができるので野菜が含まれない安物はだめだ、これは野菜がしっかり入っているが高い……減点法で選ぶ食事にはネガティブな要素しかない。
そのうち選ぼうという気力も萎えてくるが、仮に完全栄養食であっても3食同じものを食べるのは体に悪い。「前回と同じ」という選択肢すら封じられ、ただただ「選びたくない」という膿んだ思考のみが頭を支配する。
以前書いたように、本当に厳密に食べ物の好き嫌いを排除すると、「食べ物に一切執着しない」という無味乾燥な姿勢だけが残る。
「なんでも美味しく食べる」といえば聞こえはいいが、好きも嫌いもないということは端的に言えば「なんでもいい」ということであり、いざ自分で食べるものを決めようというときに「何を食べたいのか本当にわからない」という状態に陥る。
結局、人間の判断力の根っこは「好き嫌い」なのだ。ある判断を下すとき、どんなにデータを集めても、人間は最終的には自分が好ましいと思う方を選ぶ。「好ましさ」の指標がなければデータばかりが増大しオーバーフローするだけだ。AI社会の到来で、「好き嫌い」は人間固有の能力として重宝されることになるかもしれない。
結婚し、ワイフが食事を担当してくれるようになって、この苦悩からようやく自由になれた。選択を他者に委ねて「自由になった」というのも変な話だが、決断力の消耗から解放されたのは確かだ。
そして朝はそもそも決断力とか言っていられる状態ではない(参考)ので、このたび昼食がワイフの手で作られるようになって、俺は完全に自由になることができ、改めて決断力を消耗していたことを自覚したのである。
そして話は突然かっぱ寿司のことになる。
久しぶりにかっぱ寿司に行ったところ、そこではもはやスシは回っていなかった。席の端末で注文したネタがコンベアで運ばれてくるだけになっていた。
確かに理にかなっている。大幅に廃棄を減らす事に繋がるだろう。しかし上記のような性質を持つ俺には過酷なディナーとなった。
定番のネタと物珍しいネタを一通り発注すると、あとは圧倒的な「選べなさ」が俺を襲う。回っているスシは無駄ではなかったのだ。今しか取れないスシが提示されなければ決断できない人間がいるのだ。俺は結局満腹になるまでワイフが注文した皿を半分貰って過ごすことになった。
おそらく俺はもうかっぱ寿司に行こうとは思わないだろう。だが家族が行こうと提案したら喜んで同行するだろう。俺は何でも美味しく食べられるのだから。
なにしろカイシャで食う飯ほど面倒なものはない。正確には自分で食べるものを選ぶことが面倒で仕方ない。ここがあまりご理解頂けないので今回ご説明したい部分だ。
俺は食べ物の好き嫌いをしないことが信条で、幼少のころより出された料理は何でも美味しく食べるよう教育されてきた。給食は毎日完食していたし、日々の食事も個人の割り当て分を残すことはなかった。
しかし家を出て一人暮らしを始めた俺は困り果ててしまった。
食事は用意されるものではなく、自分で調達するものとなった。しかし、自炊もしくは弁当を購入しようにも、まず「食べたい」と思うものがない。食欲はある。腹は満たしたい。しかし積極的に食べたいと思う食べ物がない。
これは俺の周囲に劣悪な弁当屋しかないという意味でも、俺の好き嫌いが開花したという意味でもない。むしろ逆だ。何を選んでも美味しく食べることができ腹も完全に満たされるので、決断のための決定打がなく、減点法で選択することになる。
幼少より身に付けた「食べ物の好き嫌いをしない」という姿勢がこの事態を招いてしまったのだ。
あれは別に食べたくない、あれも別に食べたくない、ならば安い弁当にするか、いや最低限の野菜がないと即座に口内炎ができるので野菜が含まれない安物はだめだ、これは野菜がしっかり入っているが高い……減点法で選ぶ食事にはネガティブな要素しかない。
そのうち選ぼうという気力も萎えてくるが、仮に完全栄養食であっても3食同じものを食べるのは体に悪い。「前回と同じ」という選択肢すら封じられ、ただただ「選びたくない」という膿んだ思考のみが頭を支配する。
以前書いたように、本当に厳密に食べ物の好き嫌いを排除すると、「食べ物に一切執着しない」という無味乾燥な姿勢だけが残る。
「なんでも美味しく食べる」といえば聞こえはいいが、好きも嫌いもないということは端的に言えば「なんでもいい」ということであり、いざ自分で食べるものを決めようというときに「何を食べたいのか本当にわからない」という状態に陥る。
結局、人間の判断力の根っこは「好き嫌い」なのだ。ある判断を下すとき、どんなにデータを集めても、人間は最終的には自分が好ましいと思う方を選ぶ。「好ましさ」の指標がなければデータばかりが増大しオーバーフローするだけだ。AI社会の到来で、「好き嫌い」は人間固有の能力として重宝されることになるかもしれない。
結婚し、ワイフが食事を担当してくれるようになって、この苦悩からようやく自由になれた。選択を他者に委ねて「自由になった」というのも変な話だが、決断力の消耗から解放されたのは確かだ。
そして朝はそもそも決断力とか言っていられる状態ではない(参考)ので、このたび昼食がワイフの手で作られるようになって、俺は完全に自由になることができ、改めて決断力を消耗していたことを自覚したのである。
そして話は突然かっぱ寿司のことになる。
久しぶりにかっぱ寿司に行ったところ、そこではもはやスシは回っていなかった。席の端末で注文したネタがコンベアで運ばれてくるだけになっていた。
確かに理にかなっている。大幅に廃棄を減らす事に繋がるだろう。しかし上記のような性質を持つ俺には過酷なディナーとなった。
定番のネタと物珍しいネタを一通り発注すると、あとは圧倒的な「選べなさ」が俺を襲う。回っているスシは無駄ではなかったのだ。今しか取れないスシが提示されなければ決断できない人間がいるのだ。俺は結局満腹になるまでワイフが注文した皿を半分貰って過ごすことになった。
おそらく俺はもうかっぱ寿司に行こうとは思わないだろう。だが家族が行こうと提案したら喜んで同行するだろう。俺は何でも美味しく食べられるのだから。