◆不定期日記ログ◆
- ■2013-09-21
- 歪んだ客観性
たまに「あくまで自分の主観だけど」と前置きして話すことがある。
相手の話に「でもそれってオマエの主観だろ?」と返すこともある。
「自分の主観だけど」は、相手に自分の意見を強制しない奥ゆかしさを示すコトダマとして、便利に使われている。しかし、ふと、これを便利に使っていることで、逆に「主観では、相手に意見が通らない」という意識が生まれているのではないか?……と考えた。
もちろん、大人の社会では、たいてい主観だけでは意見は通らない。「めんどくさいから、やりたくない」というのが本音でも、なんとか「人手が足りない」「予算がない」などの理由を探して拒否するのが大人なのだ。相手を説得するためには、主観を殺し、客観的な理由であたるのが理知的な人のありかたである。
だが、世の中、主観でしか示せないことは多々ある。「私はお腹が痛い」ということを客観的に伝えることはできない。伝えなければならないときは、やむなく医師の診断書などで替えることになるが、それで自分の腹の痛さが伝わるわけではない。我々はもう少し、主観というやつを重んじてやるべきではないだろうか。あまりに主観を排除していくと、それはそれでおかしな歪みを生む。
たとえば、「電車内での携帯電話の使用はお控え下さい」というマナーから、そんな匂いを感じる。もともとは「うるさいから喋るな」と言いたいだけだったのではなかろうか。それに客観性を持たせるために「ペースメーカー使用者への配慮を」という要素を付け加えてしまったのだとしたら、それが歪みの始まりだ。
この大携帯時代に、ペースメーカー使用者が携帯電話を使えないのだとしたら大変なデジタル村八分だ。最初は本当に危険性があったのかもしれない。だが、今はただ、ペースメーカー使用者に呪いのように恐怖感を植え付けただけの文句となっており、優先席付近では電源を切らなければならないという謎のマナーだけが残った。優先席には病院のハイテク装置も航空機のハイテク装置もないというのに。
タバコもそうだ。アレは密室で吸われるとたしかにケムい。あとクサい。ケムいのはそこまで嫌いじゃないが、帰宅したら即ファブ必須なあの匂いは困る。……って感じの軽い嫌煙者は俺以外にもいると思うのだが、嫌いとか困るとかは個人の主観である。そして、これを社会的に押し通すために作られた根拠が「副流煙の害」なのではないか。
昔、養老孟司先生が「タバコの害に科学的根拠はない」と主張していたのを読んだ。「そんなわけねえだろ」とは思ったが、少なくとも副流煙の害の根拠とされる平山論文には疑問点が多い、というのは意に留めておく必要がある。仮に副流煙が排気ガス等と比べて圧倒的に無害だったとすると、喫煙者がガンになるのは個人の嗜好ということになる。そして、喫煙でガンにならずとも、日本人の3人に1人はいつかガンで死ぬ定め。医療費の総額は減らぬ。よって嫌煙家の主張対象は「くせえ」などの主観的だが肝心なものへ集約されていく。となると、匂いや煙の出ないかぎたばこ等が許容され、喫煙者と非喫煙者の妥協点にたどり着けた可能性もある。だが実際は、副流煙の害がろくに精査されないまま恐怖感として嫌煙家に広がり、両者は完全に断絶してしまった。
捏造とまでは言わないが、このように妙な「客観性」を持たせることで、新たな歪みが生まれてしまった例は他にもあるのではないか。それもこれも、「客観性」を持たせないと主観を通せないからだ。我々はもうちょっと主観を出してもいいし、他人の主観を汲む姿勢も必要だと思う。まあこれも自分の主観だけど。
相手の話に「でもそれってオマエの主観だろ?」と返すこともある。
「自分の主観だけど」は、相手に自分の意見を強制しない奥ゆかしさを示すコトダマとして、便利に使われている。しかし、ふと、これを便利に使っていることで、逆に「主観では、相手に意見が通らない」という意識が生まれているのではないか?……と考えた。
もちろん、大人の社会では、たいてい主観だけでは意見は通らない。「めんどくさいから、やりたくない」というのが本音でも、なんとか「人手が足りない」「予算がない」などの理由を探して拒否するのが大人なのだ。相手を説得するためには、主観を殺し、客観的な理由であたるのが理知的な人のありかたである。
だが、世の中、主観でしか示せないことは多々ある。「私はお腹が痛い」ということを客観的に伝えることはできない。伝えなければならないときは、やむなく医師の診断書などで替えることになるが、それで自分の腹の痛さが伝わるわけではない。我々はもう少し、主観というやつを重んじてやるべきではないだろうか。あまりに主観を排除していくと、それはそれでおかしな歪みを生む。
たとえば、「電車内での携帯電話の使用はお控え下さい」というマナーから、そんな匂いを感じる。もともとは「うるさいから喋るな」と言いたいだけだったのではなかろうか。それに客観性を持たせるために「ペースメーカー使用者への配慮を」という要素を付け加えてしまったのだとしたら、それが歪みの始まりだ。
この大携帯時代に、ペースメーカー使用者が携帯電話を使えないのだとしたら大変なデジタル村八分だ。最初は本当に危険性があったのかもしれない。だが、今はただ、ペースメーカー使用者に呪いのように恐怖感を植え付けただけの文句となっており、優先席付近では電源を切らなければならないという謎のマナーだけが残った。優先席には病院のハイテク装置も航空機のハイテク装置もないというのに。
タバコもそうだ。アレは密室で吸われるとたしかにケムい。あとクサい。ケムいのはそこまで嫌いじゃないが、帰宅したら即ファブ必須なあの匂いは困る。……って感じの軽い嫌煙者は俺以外にもいると思うのだが、嫌いとか困るとかは個人の主観である。そして、これを社会的に押し通すために作られた根拠が「副流煙の害」なのではないか。
昔、養老孟司先生が「タバコの害に科学的根拠はない」と主張していたのを読んだ。「そんなわけねえだろ」とは思ったが、少なくとも副流煙の害の根拠とされる平山論文には疑問点が多い、というのは意に留めておく必要がある。仮に副流煙が排気ガス等と比べて圧倒的に無害だったとすると、喫煙者がガンになるのは個人の嗜好ということになる。そして、喫煙でガンにならずとも、日本人の3人に1人はいつかガンで死ぬ定め。医療費の総額は減らぬ。よって嫌煙家の主張対象は「くせえ」などの主観的だが肝心なものへ集約されていく。となると、匂いや煙の出ないかぎたばこ等が許容され、喫煙者と非喫煙者の妥協点にたどり着けた可能性もある。だが実際は、副流煙の害がろくに精査されないまま恐怖感として嫌煙家に広がり、両者は完全に断絶してしまった。
捏造とまでは言わないが、このように妙な「客観性」を持たせることで、新たな歪みが生まれてしまった例は他にもあるのではないか。それもこれも、「客観性」を持たせないと主観を通せないからだ。我々はもうちょっと主観を出してもいいし、他人の主観を汲む姿勢も必要だと思う。まあこれも自分の主観だけど。