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■2010-03-20 : 特攻平和会館へ行ったこと
 鹿児島は知覧、特攻平和会館へ行ってきた。
 ここには1000人を超える特攻隊員の、遺影・遺品・遺書が展示されている。

 若くして国から死ねと命じられた人間の叫びを目の当たりにして、反戦の思いを新たにする……予定だったが、戦争とは関係のないところで、人間に絶望してしまった。

 1000人超「しか」いないのだ。
 ……こんな事を言うと各所から怒られるだろう。
 特攻基地はここだけではない、全国にはもっといる。
 だがそれでも、南の島で、特攻同然の作戦で玉砕させられた人の方が圧倒的に多い。

 その人たちは、遺書も残せず死んでいったはずだ。
 特攻隊の若者よりも、こちらのほうがはるかに悲劇で、人数も多い。
 にもかかわらず、僕らはその人たちの事を知らない。
 その人たちが生きた道のり、死んだ顛末が記録されていないからだ。

 つまり、僕らは、悲劇というストーリーを通してしか、他人の死を理解できないのだ。
 いくら「何人死んだ」と言っても「何人殺された」と言っても、数字でしかない。
 人の命は等価なはずなのに、より悲劇的なストーリーが残っている人の死がクローズアップされる。
 そうしなければ僕らは他人の死を理解できないのだ。
 それじゃそれが、生身の人間の実話である必要はないじゃないか。
 なんという浅い理解!
 特攻平和会館にあふれる悲劇を見てこのことに気付かされ、人類に絶望した。


 せめて、逆に考えよう。
 フィクションにも、命の重さを表現できる可能性があると考えよう。
 それが、娯楽作品として成立するかどうかはわからないが。

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